0411

プリモ・レーヴィの命日。

 

 私たちが忘れてはならないのは、ナンシーやアガンベン、あるいは、アルフォンソ・リンギス、それにランシエールと行った現在の共同体をめぐる議論の根底にあるのは、このような恥と怒りの感情であるということである。移民が、失業者が、難民が捨て置かれ、死んでいくこの社会、この世界の一員として、それを恥じ、怒る者たちこそが共同体を思考する者たちなのである。

 それゆえに、共同体についての思考が絶えず立ち返るのは、「人間であることの恥ずかしさ」というプリモ・レーヴィの言葉である。今日、人類という共同体が考えられるとしたら、それは、この「人間であることの恥ずかしさ」から出発してでしかない。それは、何も、恥の感情を共有する共同体というのではない。贖罪を共有する共同体ではない。あえていうならば、人間であることへの同一化を解体する身振りを共有するというべきか。(田崎「恥、怒り、存在」116)

 

地獄にいないのは主人ではない。あるいは少なくとも、主人だけではない。地獄は主人なき奴隷の場所なのではない。むしろ不在なのは奴隷自身なのである。そこにあるのは、奴隷なき従属である。地獄では、シーシュポスのように、ただ繰り返し、再開することしかできない。(118)

 

したがって、アイデンティティとは同一化のプロセスとしてのみ理解しうるとするなら、アイデンティティをもつということは、自らの存在を失い、そうすることで永遠の生命——自我の理想としての「日本人」や「ドイツ人」や、あるいは、「男」、「異性愛者」など——に参与することであることがわかる。それに対して、地獄とは、理想へと同一化することなく——することもできず——、自らの存在に執着することなのである。... このような対象への同一化とは違ったかたちで、個体化を考えることはできないものだろうか。自我の理想なしの個体化。自我の理想なしの共同体。(120-1)

 

 一切の能動性を奪われた存在にとって、反抗とは何を意味するのか。それは「誰かが生きている」ということ、何かを選び取る能力が喪われた後で、生き延びることにおいて、生き残ることにおいて、反抗が、抵抗が形成される。誰かであること、それは、ポリスを構成する自由民市民男性の生のような、輝かしい公共空間への出現ではない。しかし、それは現われであり、いわばアウラのような密やかさを伴って、自らに距離を穿つ。魂は、肉体の牢獄(フーコー)であるばかりではない。それは、肉体の劇場でもある。「誰かであること」は、生に現われとしての性格を与える最低限の隔たりを創設するのである。いわば、それこそが魂なのだ。つまり、魂は、一部の者たちがそう考えたがるような生の直接的な自己把握、いいかえるならば、体験ではに。

 地獄、それは、このような魂の創設の場、魂が自らの存在に執着する場所であり、個体性の経験の在処なのだ。(123)

 

 恥の感情は、同一化の対象に対してばかりではなく、まず何よりも、自らの同一化の働きそのものに対して怒りを向ける。それは、このかぎりでは、怒りを対象から自分自身へと転位させる同一化とは違うやり方で、怒りを対象から逸らす努力なのである。対象から同一化の作用そのものに対して怒りを移し替えることで、自らの存在を、別なやり方で構成しようとするのである。この意味で、恥は存在論的な感情なのである。それは、いままで私の存在を構成し、規定していた同一化の対象——自我の理想であるようなさまざまな名前——を廃棄し、別の対象へと同一化することではない。そうではなくて、そもそも「私」の存在そのものの在り方を変えようとする努力である。

 それはまた、生き延びようとする努力でもある。なぜなら、一度同一化の対象を喪っても、その空白を別の対象によって埋めることなしに生きようというのだから。つまり、対象喪失による存在の危機に二度と遭わないための努力なのだから。存続するのは同一化の対象ではなくて、自分自身の存在なのだ。したがって、恥じること、それは、喪失そのものを喪失しようとすること、喪失の喪失のうちにこそ自分の存在を見出そうとすること、そういった試みでもある。...名を共有する主体としての人類ではなく、名をもつことを分有することによって構成される共同体としての人類、それは、私たちにとっては、恥と怒りの存在論という通路によってのみ辿り着ける者なのである。124-5

「シーシュポスのように、ただ繰り返し、再開することしかできない」地獄で恥の感情とともに生き延びようとすること。

 

昼起きる。最近は結構長く寝てしまう。週明けぐらいから徐々に修正するか。昼食中に桂枝雀「貧乏花見」。あんまピンとこないがとりあえずアップされているものは順に観ていくことに。とにかくあらゆる局面で習慣・日課を増やしていくしかない。

『芸術作品の根源』一応最後まで。日本語が頭に入ってこなさすぎる。「大地」ってのがなんなのかどうもさっぱり...。ここからハーマンなどにつながる流れも面白そうだけど、ひとまず足元でそっちを掘っている時間はなさそう。

夕方金属バットラジオ聞きつつプランク、プリズナートレーニングから腹筋と腕立て。

なみちえ「毎日来日」で近所6km。短時間で自転車に乗った警官を3人見かけた。ここ最近は人通りの変化を報じるためと思しきヘリコプターと羽田行きの飛行機が低空を行きかうことも多いが、そこに人通りがまばらな通りを巡回する警察が加わるのか。末世にも程があるが、転形期だと思いこむことにする。帰宅後風呂で『無能な者たちの共同体』2章分。

夜、只石博紀《花見ランド - 青山霊園 - Japan 1.4.2007》を配信で。純度高めの悪そうな人たちしか映ってなくて元気出た。満開の夜桜をバックにケツの破れたパンツをはいたおっさん達が鳴らすノイズ。

ドリームマッチ追っかけで。好きそうなやつだけ。くっきーは数年前の矢作回同様相手が誰であるかはなんの関係もないスキャナーズみたいなコントで久々の当たり。ジャーマンのブリッジが綺麗だった。

就寝前、なかなか眠くならないのでサツマカワRPGとYESアキトの1分ぐらいのギャグ動画をひたすら見る。アキトの落語マクラのやつめちゃくちゃ笑った。

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0410

 機械性とは、このような習得することしかできない物のことであり、けっして、何らかのデザイン(意図)やプログラムの先行性を意味するのではない。むしろ、純粋な意図、志向性の実現とは、収容所的な空間において可能になることなのである。収容所とは、機械性としてのエートスの破壊なのである。人間は機械でなくなることで、人間でも主体でもなくなるのである。機械ではない人間は、ただの生命、生命でしかない生命になる。殺すことと区別し得ない生き延びることである生命に。

 習得されるしかないものによって、私たち人間は、その生の形を築いている。それは、形相の付与者としての制作者=デミウルゴス(職人)をもたないという意味で、誰からも与えられたのではない「かたち」である。「かたち」の分有ということも、ここから考え直さなければならない。人間の行為を、いや、そればかりではなく、人間の文化というものを、制作をモデルとするのではなく、むしろ、学習をこそモデルとして理解しなければならないだろう。ひとは機械となることを学ぶのである。...

田崎英明「生を導く——エートスについて」『無能な者たちの共同体』94)

 

緊急事態宣言下でもはや収容所的な空間と化しつつある実家、「状況が裂いた部屋」で機械となることを学ぶために粛々とこなされる日課の数々。

昼前に起きる。フリーバッグS2、2話。「シャーロック」でモリアーティ役をしていた俳優が演じる新キャラの神父がいい味。

午後別の本をまとめたりするはずがハイデガー『芸術作品の根源』を読み始めてしまう。導入解説やらと講義一回目「物と作品」まで。物、作品、両者の間にあるものとしての道具。ゴッホの靴の絵を褒めるハイデガーのムードが、カヴェルによるエマソン「経験」のWe shall win at the lastのlastは靴底の意味でもあるという謎解釈にまで響いているのだろう。時々無駄に難解な訳語が出てきたところだけ英訳を併読してみるとめちゃくちゃわかりやすい単語が出てきてなんなんだ、となるのが二箇所ほど。当時の致し方ない事情はあったんだろうけどもうちょいなんとかならなかったのか。

夕方、金属バットラジオ聞きつつプランクチャレンジ4日目、プリズナートレーニングからスクワットとプル。やや日が陰ってきたあたりで5キロ。ランニング飛沫リスクの話を目にしたので、人通りの少ない道を意識してみた。

「いだてん」3話。ようやく大河ファンが見てもついていけるようなリズムの回。1,2話目で攻めすぎてかなり視聴者が減ってしまったとしたらもったいなかったような気も。

 

現在、私たちはの多くは、学ぶことは教わることだと思っている。そして、教えるにはそれに相応しい時期、カイロスがあると考えている。それゆえに自分の記憶には日付があり、始まりがあると思っている。だが、教えようという意図のもとに教えても教えられないことがあり、また、そのような意図とは無関係に学んでしまうもの、学ぶしかできないものがある。そのような記憶は、教わったという記憶なしに想起されるのである。人は教わったことしか想起しないのではない。

(田崎「テクネー/ポリス——国民化の時間性について」110)

 

夜は事務メールをいくつか。大学に入りたてのデジタルネイティブ晒し上等な学生たちを相手に、顔出しオンライン講義をしなければならない可能性が現実味を帯びてきたタイミングでたまたまこういうものを読むと元気が出る。

深夜AirpodsAphex Twinの配信を見て寝た。そもそもBluetoothイヤフォンすらはじめて導入したのだが、部屋で立って聴くのにいいなあ(重里)。

 

20200406-09  緊急事態第1週前半

0406

本当であれば新年度の今日から平日は毎朝早くから仕事の日々が始まるはずだったのだが、コロナで4月はほぼ自宅待機になってしまった。十年ぶりぐらいだが、少なくとも緊急事態宣言が解除されるまでは日記を書こうと思う。

 

カヴェルの講義録Cities of Wordsからロールズ章。いくら同僚でも怒られないのかという『正義論』へのクソリプぶりが凄まじかった『道徳的完成主義』に比べると、かなりわかりやすい順を追った議論になっていたような。

カヴェルはトップダウンで決められた規則に同意する形で形成される正義に対して、正義の対話を対置する。ゲームが道徳生活を例示illustrateするというロールズ初期論文の議論を引きながら野球のルールのたとえ話をしている箇所が面白かった。「ストライク4つでアウトでもいいすか?」と質問するやつの扱い。ルールに挑戦する人物をここで野球を知らないか冗談を言っていると解釈するロールズに対して、カヴェルは「頭がおかしいか、野球がなにかだけではなくゲームをプレイすることがなにかわかっていない可能性もある」とする。道徳生活においては、ゲームを定義するルールの役割を果たすものは存在しない。あらかじめそういったものが存在し、プレイヤーの責任がどのようなものか全てわかっていればそのゲームを実践practiceすることができ、それをプレイすることができるが、道徳生活においては規則への挑戦はより議論に開かれている。この辺りから規則への議論が約束とは何かへとスライド。

『正義論』64節「熟慮に基づく合理性」における、「合理的な個人はつねに、自らの計画が最終的にどのような結果になろうとも、自分を決して非難する必要がないように行為すべきである」、及び「熟慮に基づく合理性に従って行為することはただ、私たちの行いは非難の余地がなく、しかも、私たちは時間を通じてひとりの人間として自分自身に責任を負う[配慮している]ということを確実にするだけである」(強調筆者、555)、とりわけ「非難の余地がない」という記述にカヴェルはひたすら噛み付く。(さすがにここでの記述はロールズも文字通りの意味ではなく議論の要請上必要な仮定として出しているだけだと思うのだが、そこにひたすら澄んだ目でマジレスをかましていくスタイルがおそらくカヴェルの一番面白いところ)「非難の余地がない」という表現は、お前はゲームのルールわかっとらんな、と言ってるように聞こえるし、他者を道徳的に不十分な存在であると示唆していることになる。原書344でロールズは、「約束は公的な規則のシステムによって定義される行為である」、としているが、そこにカヴェルは疑問を差し挟む。約束は決してpartialityや不完全性を避けることはできない。守れない約束や自分との約束に関するコミカルな例をあげつつカヴェルは、「自らの妥協に対する無防備さ」と彼が呼ぶものとともに生きること、すなわち再婚喜劇映画におけるパートナー、対話相手からの批判、非難への応答を通じて変化を続けながら生きていくscrewy気のふれた笑?個人像を、ロールズの「合理的な個人」に対置する。ロールズの議論の上から目線の厳密さを批判しつつ、なんとなくダメ人間の自己肯定じみた雰囲気も感じさせるほっこりムードの結論に持っていくあたりがいかにもという感じ。

書いてから気がついたが、これを読んだのはおそらく4日だった。6日は対談原稿の構成をチェックして送信したんだった。こちらで考えた質問ベースではなく構成のみははじめての経験だったがこれはこれで難しい。

明日から大学が閉まるということで慌てて図書館他へ。必要な資料を全部かき集めたつもりがいくつか忘れてきてしまったが、今更どうにもならない。家と大学往復で自転車一時間ほど。

夜「いだてん」を再放送で見始めた。先日までの畔倉重四郎も終わってしまったので食事中に会話しなくてすむための日課が必要だったところに五輪延期も相まってちょうどいいタイミング。さすがに攻めすぎではという構成にびっくり。webで限定公開されていた細馬さんの時評に出てきた破裂音pをめぐる指摘のあまりの鋭さに二度びっくり。役所広司の「平和 paix ぺ」。

 

0407

ニーチェ「教育者としてのショーペンハウアー」読み直してカヴェル本ニーチェ章。近所で5キロ。帰宅後風呂で『無能な者たちの共同体』2章分。『英語冠詞大講座』演習。

厳密にはどの日だったか忘れつつあるが、限定配信で色々観た。そういう柄ではないはずがストローブの新作短編でちょっと感動してしまった。日差しと白鳥の有無だけで色々と喚起されてしまう不思議。

 

0408

カヴェル本プラトン章、『国家』の関連箇所。近所で5キロ。帰宅後風呂で『無能な者たちの共同体』2章分。初zoom飲み少々。『英語冠詞大講座』最後まで。まじで冠詞難しい。びっくりするくらい間違えるのでもう一周ぐらいはしないとか。

spotifyプレイリスト聴きつつ『ポップミュージックを語る10の視点』4章分。

1章、最後の坂本龍一未来派野郎」をヒップホップに対する太平洋を隔てた国からのアンサーとして聴くくだりが面白。

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2章はだいたいJTNC経由で聴いたものが多かったが、改めて影響元からの流れに位置付けて聴き直すと発見がいろいろあった。ノーマークだったものとしてはフュージョン関係、特にアラン・ホールズワースは聴いてみようかと思った。

3章、フェスの時代のもろ当事者としては世代論でざっくり分類されることに対して当事者的な抵抗を感じもしたが、まあそういうのは織り込み済みの研究ではあるだろう。最後に新世代バンドとして紹介されていたCar Seat Headrestは聴いたことなかったけどエピソードといい曲といいボーカルの面がまえといい完璧だったので色々掘りたい。

5章、カーダシアン家のリアリティTVはいずれ研究とかで観なければならなくなる可能性もありそうだけどさすがに後追いするには歴史が長すぎて厳しそう...

深夜、ウィンターボトム『キラー・インサイド・ミー』、ストレスフルな状況下で観るのにぴったりの一本だった。未読だけど原作が良すぎるんだろうというのと、ケイシーのサイコ野郎演技が完全にツボ。ジェシカ・アルバを壁際まで吹っ飛ばすまでの流れが良すぎてそこだけ二回観た。

 

 

0409

カヴェル講義、プラトン関連を読み終える。一応一旦はここでひと段落ということに。

夕方から自宅で初のオンライン講義、と思いきやwifi弱すぎて接続できないので断念。教材を取りにいく用事ももあったので塾から中継することに。まあ取り立てて問題はなかったが、家でやるとなるとホワイトボードがないのをどうするか。買う金はない。塾にも着々とコロナの魔の手が迫っていそうでなかなか怖かった。

防音をなんとかしないとそろそろ自宅で勉強するのも限界ということで帰りに電気屋Airpods pro購入。自転車で往復45分ほど。

夜、ノイズキャンセリング初体験。あまりにも雑音が消えるのでカルチャーショック。これで居間のテレビ音声まる聞こえの自室でも諸々なんとかなるかもしれない。

最近、やや寝つきが悪いので就寝前にASMR動画を試しに聴きはじめている。触覚的な刺激が非常に制限される状況で無意識にそうしたものを欲しているところがあるのかもしれない。どちらかというと環境音に含まれるある種のノイズを強調するようなベクトルのASMRは、ノイズキャンセリングと対極に位置しているようで案外似た需要があるのでは?とちょっと検索してみたらASMR体験の質を上げるためにノイズキャンセリングが推奨されたりもしているようだ。