0507

だが結局のところ、この無差別とは、エクリチュールのページの上に到来し、あらゆる眼差しに差し出されるすべてのものの平等以外の何であろうか。この平等が、再現=表象のありとあらゆるヒエラルキーを破壊し、そしてまた、読者の共同体を正当性のない共同体として、すなわち、文字(レットル)の不確定的な流通によってのみ描き出される共同体として創設するのである。(ランシエール『感性的なもののパルタージュ』10-11)

10時すぎになぜか隣のマンションに住む子供の声で起こされる。

午前ベランダで現代思想の感染特集から気になっていたものを。アガンベン、ナンシーらの寄稿は即レスすぎて特に練られた内容でもなく、わざわざ批判する意義もないぐらいどうでもいい内容だった。ただ自分のような人間ですら、これが「剥き出しの生」か、となってコロナ騒動発生後にアガンベンの本をはじめてちゃんと読んだぐらいなので、本人がコロナと過去の自分の議論を重ねたくなるのはさすがにそうなるだろとは。まあ当時から批判されていたみたいだが、なんでも剥き出しの生、なんでも例外状態と騒いでしまうと本来の批判的な価値も薄れるという面は間違いなくあるだろう。ジジェクのは相変わらず。キューブラー・ロスを引きつつ否認⇨怒り⇨取引⇨抑うつ⇨受容のサイクルをしつこく当てはめてベタな世間の声?に冷水を浴びせまくる一連の流れはまあピュアな左翼の神経を逆なでする効果はあると思ったが、それだけ。ウエルベックもそんなようなことを書いていたが、コロナは正面から見据えても知的にはつまらない対象、というのはあるだろう。むしろHIVや人類学などに引きつけた議論の方が頷く部分が多かった。引かれていたエイズをめぐる浅田彰と柄谷の対談は読んでいなかった。その他、先日友人に勧められたばかりのチェルノブイリルポと関連づける記事なども。

MUBIの視聴期限が迫っていたのでかなり久々に昼映画。映画館がなくても締切がないと映画が観られない....。ジョエル・M・リード『悪魔のしたたり Bloodsucking Freaks』(1974)。監督がコロナで亡くなってしまったそうで特集されていた。金がかかってなくてもはっとさせる効果抜群の照明など、細部の職人技や工夫が光っているのに加え、トロマ作品的なものに関する自意識を潜ませつつ笑い飛ばす脚本も愛おしい。同僚の足を切り落とす脅しのテクニックで奴隷にされた一流バレリーナが、主人公?の舞台監督による前衛的な演出で磔にされた批評家を蹴り殺すことで、彼の作品をくだらないまがい物として一蹴した批評家への復讐が果たされる。背後からのどぎついスポットライトに照らされたバレリーナは意味もなく上着を脱ぎ、乳を放り出しながら大谷の顔面ウオッシュを思わせる勢いで縛られた批評家にハイヒールで蹴りをかます死霊の盆踊りレディ・イン・ザ・ウォーターとプロレスが合体したような奇妙なオープニング・ナイト場面に感動。破茶滅茶なラストも完璧。

夕方から筋トレ、三日ぶりに外出して5km。サブスクが消されたらいやだなと思い漢のソロアルバム聴きつつ。さすがにあのレベルだと警察にもある程度お金とか握らせて捕まらない仕組みになっているのかと思っていた。塀の中は何よりコロナが心配。

論文を進めるはずが優先順位低めの仕事ばかり進めてしまう。一つ根本的に内容を変えないとまずそうな授業の準備にTedを見始めた。なんとなくノリが嫌いだったので見るものかと思ってきたが、まあ短くまとまってて面白いのは確か。とりあえずビル・ゲイツパンデミックについての講演から。コメントに「この男はwindows95から長年ウイルスと戦ってきた」とか書いてあって笑った。

TSUTAYAも閉まっている中、仕事でいろいろ観る必要が生じ、仕方なく一ヶ月だけFanzaのピンク映画chに加入することにしたのだが、もたもたしていたら半額キャンペーンがGWまでだったらしく朝に終わっていた。悔しい思いを抑えつつ倍額払って加入。まあ寄付だと思うことにする。城定『味見したい女たち』(2003)。デビュー作にして、食卓や押入れ、縁側といった日本家屋の空間を生かした演出、覗き-覗かれの反転、古典的な曲の引用、中盤以降の鮮やかな転調など、その後の城定作品の定番といえる要素がすでにほぼ出揃っていることに驚く。特に隣家のプレイも含めてほとんど後ろ暗さを感じさせない覗き周りの演出のカラッとした感触には驚かされた。二重生活と覗きの関係は『人妻セカンドバージン』を(あれは屋根裏だったか)、覗きの反転のテーマからは『悦楽交差点』などを即座に想起。深田恭子似の主演があまり演技がうまくないことも性格と結びつけセリフの練習のくだりとして昇華しており見事。テロップの使い方は漫画をたくさん読んでいることが活きているのか。数撮っていくうちに完成されていったのかと思っていたところもあったが、わりと天才的な要素もある人なのかもしれない。

 

0505

ようやく論文に着手も思うように進まず。もともとあったものを入れて800words強。運動はベランダで多少日を浴びたのとプランクだけ。とにかく気が散る。ジジェク一章と、ランシエール『感性的なもののパルタージュ』訳者解説だけ。カント以上にシラーを盛んに引いているところは面白かった。政治と美学にまつわるあれこれ。

 

生きることに味わい深さを与えるのは生である。幸福にめぐり合ったときに失われるのは幸福だという自負である。何も感じないということ以上に、人間にとって自然なことはない。だが、欲望の終わりがたんなる休息だということは、人間の究極的な絶望の原理にほかならない。(ブスケ『傷と出来事』)

 

0506

オンラインで個別指導、オンライン授業用の資料をアップし、オンライン授業で出された課題を提出していたら午後が終わった。このへんの作業と読書、執筆、生活全般がすべて同じ空間で行われていることが非常にまずい。メリハリのかけらもないしやたらと疲れる。もし今自分が学費なしで休学できる学部生だったらこんな状況で授業を受けるだろうか。

とはいえ、七年も前のレジュメを引っ張り出してきてバーコビッチまとめ直せたのはまあよかった。90sジジェク本は、やけくそ具合が今ほどではなくユーゴやルーマニアなど周囲の政治状況から強いられて書いているのがありありとわかる筆致。カンフーパンダがどうとか言い出して以降と比べるとユーモアの質がガルゲンフモールっぽい。

爆笑問題カーボーイの岡村についてのところを追っかけで。問題のラジオを一切聴かずに署名してる人にこそ聴いてほしい内容だった。一部そんなに同意できないところもあったけど、とにかく誠実。結局は大衆芸能だから何を求めるか決めるのは客の側、と断言していたのもよかった。そこからの連想で昔ユリイカ三浦俊彦が書いていた談志の「マニアックな客」問題を久々に思い出したり。

 

夏の青さは脅迫的である。コキジバトの色をした森に吹き荒れる嵐のように、そこでは鳩が地面に叩きつけられて死んでいく。昨日、私は外出した。帰宅したのは別の男だった。(ブスケ『傷と出来事』)

 

 

0504

誰もが自分自身に囚われの身であり、誰もがその牢獄の壁だけに言葉を書きつける。だがその牢獄が彼に解放をもたらすのである。

(ブスケ『傷と出来事』)

 朝は十時に起きられたが朝食後もどうも眠いので十分だけ、と思ったら追加で一時間ほど寝てしまう。ここ数日軽くさらっていた研究書のまとめをひとまず終える。読書ノートなど一切つけず常に短期記憶でなんとかしてきたが、さすがに非効率的すぎるので最近は少しだけ記録をつけるようになった。といってもworkflowyで引用プラス一言コメント程度だが。簡単に階層化できるのは案外侮れないということに今更気づいた。

昼食べながら「カメラを止めるな!リモート大作戦!」。もちろんヒット作セルフパロディゆえの限界はあるものの、元の作品では言い訳としても機能していた映画内映画の稚拙さが、本作ではあくまでも演者から観客まで、あらゆる映画と関わる人間の笑顔を見たいという素直さと関わるものとして表現されていて、むしろ前作よりも好感を持った。

夕方、十年以上ぶりぐらいで一番ちゃんとしてたころの?ジジェクを。『否定的なもののもとへの滞留』4章まで。言ってることは本当に三十年ぐらい全く変わっておらず、ブレていないといえば聞こえはいいが、毎年手を替え品を替えこいつは何をしているんだという気も...。とはいえカントとヘーゲルのくだりはやっぱり面白い。

ベランダ⇨屋内を移動しつつわりと長時間zoom。ログインしそこねた回で友人カップルのなかなかの修羅場が展開されていたという話など。最近落語を聴いているという話題からの流れで友人に言われて思い出したこと。高校で教えていたころ、教室に馴染めず保健室登校をしていた学生とたまに一緒に昼ごはんを食べていた。彼が最近落語にはまっているというのでどんな噺が好きか聞いたところ、食い気味で「死神」です!と返ってきて、いろんな意味で見込みがあるなあと思ったものだが、文学部を受験すると言っていた彼も今頃現役なら新卒になっているのか。明るくなりすぎずに元気でやっていてほしい。

4月後半は結局論文書きとオンラインがらみの事務連絡ラッシュであたふたしているうちに終わってしまった。

 

430

論文の仕上げ作業の合間に久しぶりに運動と筋トレ。例年より遅いのかの感覚すらなくなりつつあるが、短パンを解禁した。

夜中作業終わった流れで久しぶりに映画。なんとなくぼーっと観られそうなバカバカしいB級映画がいいかとAmazonの限定配信のものから『処刑軍団ザップ』を。効果音の使い方など可愛らしい映画ではあったが、意図せず選んだのに感染ものでげんなりした。

 

51

ようやく一段落。目覚めてトニー・アレンが亡くなったと知る。生で観たのは08年のメタモルフォーゼぐらいだったか。昔よく聴いていたアルバムをかけながらベランダで資料読み。屋外でノイズキャンセリングを試したことがなかったからか、ベランダでノイズキャンセリングかけながら音楽を聴くとまだ変な感じがする。夕方から運動、風呂。

夜はオンライン関連の連絡でまた疲弊。ごく軽く飲んで少しzoomで通話した。GW限定で無料になっていたので天才バカボン1巻を読んだが、どうも今の気分にははまらなかった。レッツラゴンの一番無茶してた時はともかく、バカボンあたりだとさすがに耐用年数が切れてきているような気も。

 

52

今日もベランダで作業。キャンプ用の椅子に加えて机や小物置き場なども設置して順調に要塞化。あまりに暑いので水着で資料読んでしまった。不審者すれすれ。読んでいる本は歴史的な影響関係やら研究史を気にしすぎない姿勢、あえて論文ぽくしたくないんですという雰囲気が強く、まあそこが良さではあるんだろうし楽しそうに書いてるのは伝わってくるが、論文に組み込まなきゃいけないかもしれないから仕方なく読んでいる身からすると、こんなノリで書ける人はさぞ気持ちいいでしょうなあという気分にもなる。

長時間日を浴びたせいか久しく感じていない種類の心地よい疲労感があったため、運動は休み。地元の本屋で買い物しようと思ったが目当ての本はなく、結局帰ってからkindleで買った。駅前はわりと人通りが多くなかなか怖かった。M3話。Song for xxの歌詞を書く直前にフェンスの前に行くくだりなど、相変わらず誰に向けているのかいまいちよくわからない細部のこだわりが良い。

 

53

かなり久々に早起きできたので朝食からしっかり食べた。午前は照り返しが暑すぎてベランダは早めに切り上げ、夕方日が陰るまでは屋内。涼しくなってからもう一度出た。明日は雨かもということで一度道具をたたんで室内に。その後走った。試しにマスクつけながら走ってみたが、汗で気持ち悪いのでこれ以上暑くなったら厳しいだろう。

自宅の場合はほとんど通りに面しておらず、かろうじて背後のマンションのベランダから見えるぐらいの場所、という立地なのでより街路と面した家のケースとはまた異なるとは思うが、バルコニーやベランダという空間のどっちつかずの性質については最近よく考えるようになった。ドラン『わたしはロランス』の終盤、バルコニーから主人公に声をかける少年を捉えた場面を分析して、バルコニーにpublic/privateの境界からケベック性、フーコーの「other spaces 他なる場所」の性質までも読みこもうとする論文があったが、自分である程度の時間を過ごした上でバルコニー同士で乾杯したりしてるイタリアの動画なんかを見ると、なんとなくそういう気分もわからなくはないと思えるようになった。

夜は動画で柳家喬太郎の落語「時そば/コロッケそば」をはじめて見た。マクラの方が存在感があるという珍しいパターン。生で見たい。深夜フリーバッグS2最後まで。もともとテレビありきで作っただけあってシーズン1よりカメラ目線の挟み方も効いていたし姉の存在感も増していた。続編あるならまた牧師には活躍してほしい。

横になってから寝るまでに寝床で書かれたブスケ『傷と出来事』から少し。

私が生成するところの人間への郷愁を、私のなかで消滅させることができるときにのみ、私は幸福であるだろう。

 

0414

「自我」というのは、「他者の廃棄」の記憶によって生み出される「疚しい意識」であるといえるだろう。「他者の廃棄」の記憶につきまとう疚しさから、すべてを自分の記憶として、いいかえるならば「自分にとっての存在」、それ自身からするなら「他者に対する存在」として自分の中にとりこむのである。したがって、すべての存在が「自己」たりうるためには、「他者の廃棄」の完全な廃棄が必要なのである。そのとき、すべての存在は、誰か特定の存在者(国民、異性愛者、植民者、世界資本主義、などなど)に対して存在することを止めるだろう。

(田崎「作品とその死後の生——時間性なき歴史の概念のために 」171)

 

たしかに、私たちはもはや言語について素朴な記述の理論に後戻りすることはできないだろう。しかし、それでは、言語の遂行性を無批判に受け入れて、それで事足れりとしていてよいのだろうか。

 何かの、あるいは、誰かの名のもとに語ることは遂行的発話の最たるものである。それは、ベンヤミンが神話的暴力の原型として捉えた顕現manifestationそのものであり、それは自らを命名し、そのようなものとして受け取ることを他者に強要する。つまり、非自我/自我の措定という遂行的な行為performanceである。

 だが、名は、むしろ、遂行中断的aformativeである。神的暴力は何かの名のもとに語りはしない。それは端的に名なのである。171-2

 

「他者の廃棄」の完全な廃棄。

昼起きる。昨晩寝つき悪く二度寝までしてしまいさすがにちと反省。

夕方まで全く頭が働かず無為に過ごす。日が暮れる直前に3日ぶりに無理して家を出てLaurel Halo 新譜で5km。どうしたんだというぐらい暗いアルバムだった。わりと意識してみたが5m常に開けておくのはなかなか難しい。後ろから追い抜かれるパターンと狭い道ですれ違うパターンはなかなか回避できないような。

風呂で「無力な〜」2章分。夜いだてん5話。主人公が子供のころ果たせなかった嘉納治五郎に抱っこしてもらうという念願を果たす場面、これでもかというぐらい回想シーンを突っ込んでわかりやすく伏線回収していることを明示していた。まあ初回が異常でこのぐらいの塩梅が大河ドラマの常道なんだろう。

今日は新しいものを読まず、Berlantがよく参照していると思しきカヴェルの講義"The Uncanniness of the Ordinary"のまとめ。話飛びすぎで最後までまとめる前に疲弊。フロイトのホフマン「砂男」解釈とラカンのポー「盗まれた手紙」解釈の細部をそれぞれ批判する手つきは、哲学なのか文学なのか精神分析にも片足突っ込む気なのか、あらゆる学問ジャンルの境界線をまたぎまくるカヴェルの面目躍如という感じ。

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「タイムトラベル」を見て、昨日のコアベル公演も含めて平倉圭『かたちは思考する』から関連章を。どちらも線的に紙の上で分析・記述するのはかなり難しい対象で、書籍という形式を極限まで酷使しようとするようなスタンスで書かれている印象を受けた。どこまで作品自体のあり方に即して複数の思考を同時並行で走らせながら書けるか、という。とはいえ自分としては連続写真+解説だとなかなか議論を追いにくいところがあるので、映像メディアで資料+講義みたいな形式で発表してくれた方がありがたいような気もする。

 

考えることが含意しているのは、社会契約への何がしかの留保なのである。それは、コミュニケーション能力の枯渇した先に、あるいは、コミュニケーション能力の手前にある。つまり、幼年期である。思考、すなわち、魂の最も高貴な場所であり、公共性そのものであるその場所には、社会から追放された、ものいわぬ子どもがいる。

 考えること、抵抗すること、それは、ものいわぬ子どもの仕事でなくていったい何であろうか。思考とは何よりも言語(の使用)の抵抗なのだから。(「思考の在り処 」183)

 

0413

昼起きる。

夕方まで順調に「集中」で区切って今日は新しめの研究書をさらう。最近読んだ論文にどれも触れていて、かつ自分の主張とあまり合わない議論が展開されているのでまあちょうどいいタイミングで読んだような。読書中、集中が切れたタイミングで筋トレを入れとストレッチを挟んでみたがこれも気分転換になってよさそう。

身体動かす時など作業中のラジオは水野しずのやつをいくつか聴いた。建前を全部本音として受け止めてしまって疲れる系のエピソード、自分も心当たりがなくもないのでどれも頷きながら聴いてしまう。吉田豪がさんざん誠実、と評していたのも納得。「人類愛」冒頭の、バイト先Aの人がバイト先Bに今度遊びにいくね、と言ってくれて嬉しかったが実際には誰も来なかったことから人間観に展開していくくだりがかなり良かった。水野しずの動画やラジオを色々と掘りはじめたきっかけは、twitterでたまたま見かけたゼペット爺さんに関するこの動画。何度見ても泣いてしまう。

 

 

夜いだてん4話。部屋のプリント類を整理。

限定公開中の、core of bells 怪物さんと退屈くんの12ヶ月 3月公演Last Days of Humanity」(full version) を視聴。この公演の「退屈くん」ときっちり対峙するためには現場でこれを体感することが不可欠だったのかな、という印象。画面越しではさすがに途中で退屈に耐えかねて他の作業を始めてしまった。現場でもう少し黙って見ていなければいけない圧のある状況だったらどういう印象を抱いたのだろうと考えつつ、散漫に気散じしつつ見た。

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珍しく寝る前に二件続けてzoom飲み。三人以上をはじめて体験。五、六人までならいいがそれ以上だと同時に進行できる話題が一つしかないせいできつそう。あと人によっては自分も話さなくてはという圧力をなんとなく感じさせるフォーマットのような気もしてきた。友人が、今は新鮮だからみんな楽しんでやってるが、共通の経験がなくなる状況がどんどん長引くと盛り上がる話題がだんだんなくなってきそう、と言っていた。たしかに、言われてみれば友人たちとの会話の中でライブや映画、イベントなど同じものを経験したことについて話している時間は結構な割合を占めているような。こういうのも今後どう変わっていくのか。

0412

感性主義のイデオロギーとは、実在の力と、魂につけられたその傷跡しか考えない立場のことであり、そのとき、正しい名とは傷つけたものとそれによってついた傷口との一致ということにほかならないだろう。そこで忘却されるのは傷の置き換えのメカニズムとしての言語である。名は言語なのである。傷そのものではなくて、その置き換えなのである。そのような置き換えられた傷としての名こそが、何ごとかを呼び出す力を持つ。

(田崎「名の間違いについて——哲学者と詩人の生」156)

 

昼起きる。自分はお肉券とかマスクの方が余程腹が立ったが、Twitterでは星野源と安倍のやつで大騒ぎになっていた。神田伯山「グレーゾーン」初演。まさかのミスター高橋本と八百長の話。グレーゾーンってのがいわゆる「虚実皮膜の間」のことだったとは。真壁のスピアーの角度とか細かい話が全部わかってしまうのも含めて楽しめた。

さらに日課増やしつつ論文進めるため、「集中」というアプリを導入。ポモドーロとか何度かやってみてはうまくいかなかったがこれはシンプルで結構いい感じ。起動中にうっかりスマホを触ってしまってもそこからダラダラ見る方向にいかない気がする。

At Emerson's Tombざっくり必要なところだけ読んだ。97年の研究書だが当時の雰囲気がかなり濃厚。文学史キャノン作家のアフリカ系及び女性に対する軽視を、特にエマソンにおいては傍流のテクストをあえて持ってきながら批判しつつ歴史を再構成。Self RelianceとRepresentative manへの服従が矛盾するところをどう誤魔化しているか、の議論は、似たようなものを読んだことはあるがある程度納得はした。Bercovitchの批判的まとめは有益。最近やり尽くされた古典研究に新味を出すために、ある程度定番化した論文を歴史化する流れがあるような気がするが、そういう観点でいうと仮想敵としても便利に使えるかもしれない。そんな作業は不毛なのでは、とか考えていては査読に通る論文は書けない、というのはおかしいとも思うがそこは一旦忘れるしかない。

今日はランニングはなし、家から出なかった。夕食後、日記書きつつミルクボーイと伯山ラジオ最新回。すでに金属も、次回から伯山もそうなるようだが、ラジオは外出できずともなんとかリモートで続くのだろうか。夜プランクとスクワット、プルだけ。風呂で『無能な者たちの共同体』2章。

Twitter糸井重里の話題からの流れでMOTHER2について話したせいで無意識に観たくなったのか、夜中にロブ・ライナースタンド・バイ・ミー』。シャマラン経てダファー兄弟やブリット・マーリングに至る流れの一つの原点。原作がノヴェラだから100分弱の尺でばっちりハマったという側面は間違いなくあるだろう。焚き火でするオチのないゲロの話最高。手を振って消えていくリヴァー・フェニックス

 

 つまり、人間の声はいつでも単声的ではなく多声的なのだ。だが、その多声性は、ミメティックな力に負っており、その起源にあるのは、自分を脅かす力を貪り食ってしまったという幻想である。そもそも私たちが事物の名を呼べるのは、その事物を私たちが幻想的に食べ、破壊してしまったからで、名はその起源からして事物の破壊、置き換えである。ちょうど人間の自我が、貪り食ってしまった他者の残りかす、亡霊であるように、すべての事物も、名として言語において、置き換えられつつよみがえるとき、それは自我ないし自己なのである。言語が、あるいは、名が、そのミメティック=記述的な性格と召喚的=遂行的な性格との分離しえない二重性をもっているのは、このためである。 

 名がこのような、破壊=置き換え=復活である以上、その正しさは、傷つけた槍とその傷口が一致するような意味での類似に基づくのではない。名は、事物の、死後の生という意味でのサヴィバルである。名は、事物の、見る影もなく変わり果てた姿なのである。言語はこのように死後の場所である。だから、シェリーは、数々の何、死者への呼びかけを委ねるのである。...

シェリーはアドネースに直接呼びかけることはできず、キーツを失った苦痛は、それ自身との同一性から引き剥がされ、けっして何とも一致することはない。何もそれを正確に埋めあわせることはできない。だが、まさにそれゆえにこそ、詩人の「私」は、思念から、個人的で社会的な生——車騎的分業の中でのポジション——から解放される。互いの思念を、生を認めあう、相互承認的な今日同種感性とは違う共同性が、言語によって可能となる。生の交換、意味の交換とは違う共同性、他者の廃棄への罪の意識ではなく、他者の廃棄としての「私」におけるコミュニケーション、文化kulturではないような共同体。

 哲学者と詩人の生が求める共同性とは、このような、言語の存在だけを——個々の発話の意味ではなく——共有するものであるだろう。158-60

 

就寝前、「傷の置き換えのメカニズムとしての言語」という視点と監禁生活との近しさから、長年枕元で積ん読状態だったジョー・ブスケ『傷と出来事』を読み始めた。