118

午前追試小テスト一つ。午後はラジオいろいろ流しながらだらだら採点。半年完全に放置していたやつもなんとかして、とりあえず6コマ中2コマほぼ終了。プランクとスクワット。夕方近所で立ち読み。樫村論考はなぜかこのタイミングでタルコフスキー論だったので作品再見してから読むことに。

高橋ヨシキのシネマストリップ』からヴァーホーヴェンのハリウッド三作のところを。『トータル・リコール』はもともとクローネンバーグが監督する可能性があり、いろいろポシャってた企画をヴァーホーヴェンの『ロボコップ』に感動したシュワちゃんが彼に持ち込んで完成に至ったらしい。いい話すぎる。同作の徹底した二重性をわかりやすく解説しているくだりには膝打ち。ちゃんと読み込めてない層にも受容されたことで儲かったっぽいのはまあ納得。初期オランダ時代を全然観られていないのでゆっくりつぶしていきたい。

蓮實重彦「零度の論文作法——感動の瀰漫と文脈の貧困化に逆らって」。鈴木一誌によるインタビュー。書き始めるまでにどれだけ寄り道するかが大事、みたいな話はめちゃくちゃ目新しいわけではないもののまあ納得。PC、ポスコロ云々が過剰に重視される傾向に対して、「文脈間の階級闘争」の視点がないところがダメ、と切って捨てているところに一番膝打った。http://jun-jun1965.hatenablog.com/entry/20171121ここで猫猫先生も書いていた「学問とは何か」という問いについては、サイードを主な仮想敵としてお行儀のよい「文学研究」をディスりつつも、最近もいくつか博士論文の査読はしてまっせという点を強調しており、ダブスタっぽさはあった。

寝る前にケリー・ライカート特集延長戦で『ナイト・スリーパーズ Night Moves』。無料今月までだったので慌てて観た。結局配信も消えるなどのきっかけがないと観ないというのは我が事ながら皮肉。例によって爆破で全てが引っくり返るはずもなく、Old Joyにも近い微妙な気まずさをはらんだ時間がミッション達成後も続く。珍しく終盤は彼女にしては劇的な展開となるが、なぜか量販店でバイト始めようとする場面でやっぱり背後が気になる、からの店内鏡ショットで終了、という唐突な締め方は非常に良かった。冒頭のスプリンクラーショットから、ところどころ挟まれるロングショットなど撮影は終始決まっていてかっこよし。『ソーシャル・ネットワーク』でザッカーバーグ役やってたジェシー・アイゼンバーグの悩み多き二宮くんみたいな顔も、夢見がちお嬢様のダコタ・ファニングも、発言も行動も適当すぎていちいちアイゼンバーグ演じるジョシュをピリつかせるピーター・サースガードもそれぞれはまっていた。どう考えてもライカート作品のアンチ物語、アンチクライマックス要素に最も貢献していると思しき、かなり多くのライカート作品で原作と脚本に関わっているJon Raymond の小説は今年どっかでまとめて読みたい。

 

119

昼過ぎから自転車で渋谷。

ヒューマントラストでキム・チョヒ『チャンシルさんには福が多いね』。冒頭の初期ホン・サンス作品をあからさまに意識した飲み会場面からの映画監督=ホン・サンス急死という展開には思わずガッツポーズ。当然彼との関係を読み込まれることは承知の上で、父殺しというほど劇的ではない喪失から緩やかな再生へと至る物語がとぼけたユーモアとともに展開されていくところも良かったし、監督が死んで女性プロデューサーが主役、恋愛もそこまでメイン要素にはならず、というあたりで初期ホン・サンス的なものを期待させる冒頭からの予測を巧妙にすかしつつ、結局彼女自身のキャリアを色濃く反映した作品を撮っているという意味では極めてホン・サンス的でもあるというバランスの取り方も非常に好みだった。ただ、後半主人公の重要な変化をかなり言葉で説明してしまっていたのだけはいただけなかった。月永さんがレビューで書かれていた「自分探しの物語ではなく自分のスタイルを探す物語」(大意)という指摘はその通りだと思うのだが、それを大家が家の中に入れた花との重ね合わせや、自らのこれからをめぐる独白で表現してしまうのは野暮だろう。前半の木の実とか近所の坂を登ったところに出てくるよくわからん健康器具とかの場面は良かったのだが。。。

少し時間が開く間にバイト先で源泉徴収受け取り、セール冷やかしなど。戻ってテレンス・マリック『ソング・トゥ・ソング』。『名もなき生涯』はもう少し別のテーマに踏み込んでいたが、この映画は時系列的には二作前のTo the Wonder、一つ前のKnight of Cupsと構造的に全く同じ話でさすがに笑ってしまった。まあキリスト教のことを四六時中考えていてカヴェル先生の教えが忘れられないんだろうけど、さすがにメンヘラビッチだった私も目が覚めたわ、これまで音楽業界の華やかさに目がくらんでいた俺もやっぱり肉体労働からやってくっしょ!みたいなラストでこれが現在進行形の再婚喜劇です、と強弁するのは舐めすぎだと思った。まあ、この辺の年寄りが急に日和って多様性が、とか言い出すよりはアフリカ系の起用法も露骨に差別的で、もうアップデートとかする気は毛頭ないっす、といった開き直りぶりにはうけるーとは感じたが。散々出てくるフェスはコーチェラかなんかなのか。映画がルベツキが撮ったハードコアバンドのモッシュピットで始まるのはこれは何を観させられているんだという感じで最高だったが、久々に観たのにあの撮り方には一時間以内に完全に飽きていた。数多くのカメオ勢の中ではなぜかパティスミスだけ結構大事な役を与えられていた。あと架空バンドでヴァル・キルマーが捕まるくだりが意味不明で笑った。ゴズリングは期待に反してベンアフよりだいぶ顔が映っていた。

夜は九龍ジョー編集のDidion2号「落語の友達」を。適当にいくつかつまもうと思ったら予想以上に面白く全記事読み終えてしまう。当たり前だが寄席でつながる友達の感覚はこの雑誌で補助線が引かれていると言っていいライブハウスにせよ、個人的に身近に感じる名画座や映画館にせよ似たようなもんで、しかも落語ファン界隈にはそんなにうざいシネフィルみたいな人もいないのか、皆さん楽しそうな筆致で読んでいても楽しかった。有名人よりも全然知らない方の寄稿の方が面白かったりするあたりも含め、最近の雑誌にはほとんど存在しない「雑」の要素が随所に感じられる一冊だった。これはストリップ特集も買うか。

 

1/20

朝近所の工事と思しきドリル音で予定より早く叩き起こされる。

午前はTurkleのAlone Together2章まで。Introではテクノロジー万歳に近かった以前の著作から徐々に悲観的になっていく流れがまとめられる。以前読んだ次の本ではたまにはスマホの電源切ろうみたいな方向になっていた記憶があるので、この本が過渡期という感じなのか。1、2章は80sの自らの経験から書き起こして、自分の子供のエピソードや文学や映画の例も挟みつつ、たまごっち、ファービーあたりに至るロボペットの歴史を振り返る。知らなかったがもともと精神分析畑にいたらしく、ありがちだが フロイトの「不気味なもの」の概念をこれらのロボットに当てはめていた。電源を切ることの位置をめぐる議論や子供たちのリセット拒否の事例、あるいはたまごっちの墓のエピソードなどに子供なりの「喪の作業」の萌芽を見出し、たまごっちやファービーの「死」をどう捉えるか考えている箇所がここまででは面白い。意外にも『機械カニバリズム』とかと重なりそうな問題系。

昼食後、ベッドの上でジョー・ブスケ『傷と出来事』を読み終える。なぜか半年以上中断していたのを宣言開始を機にまた再開。ほとんどを緊急事態宣言下のベッドの上で読んだことになる。特にこの本については読むのにふさわしいタイミング、場所、時間があったと思う。あらゆる文化が傷自慢大会に近くなってきている現在こそ読まれるべき本のような気もする。

自転車でヴェーラヘ。ジャック・ベッケルエドワールとキャロリーヌ』(1951)。ただ痴話喧嘩してるだけなのに滅法面白い。特にパーティーの準備中にもめてるだけの前半の充実ぶりがすごい。いかにも気の強そうなアンヌ・ヴェルノンがとにかく可愛い。

ジョージ・キューカー『男装 Sylvia Scarlett』。キャサリン・ヘプバーンデヴィッド・ボウイかと思う男装が最高。親父が出っ歯のお手伝いさんに惚れた挙句嫉妬に狂っていくくだりなど、サブプロットがガチャガチャしすぎで後半はわけわからん展開だったが、コスプレが楽しかったのでまあよし。映画終えたところで久々にお仕事の依頼。ようやくちょっとやる気出てきた。

2ヶ月半ぐらいほぼ何も書いていなかったが、そろそろリハビリを開始ということで超絶今更の2019年ベストと日記を書き始めた。と言いつつ一旦書き出してしまうと計4300字ぐらいになっており、例によって加減を知らないのはなんとかしたい。

とりあえず宣言中は書く気だがいつまで続くか。

 

0510

なかなか寝付けず寝たと思ったら目覚まし三つかけてたのに二度寝で12時起き...。起きて早々、検察庁法をめぐるあれこれでしばらくtwitterを徘徊してしまう。

韓国の蓮實インタビュー翻訳連載3回目まで。まあ聞いたことある話多めだったが、40s後半から50sのハリウッドのプロデューサー(ドーリ・シャリー、キング兄弟)のレトロスペクティヴやりたいという話はぜひシネマヴェーラあたりで早めに動いてほしい。そもそもいつ映画館再開できるんだという状況ではあるが。

ミメーシス今日も二章分。

母の日ということで近所のフレンチビストロでテイクアウトして夕食。その流れで軽く飲んだのが良くなかったのか、その後廃人のようにだらだらしてしまい論文ほぼ進まず。切り替えて休むのは下手だが結果的に週に1日は必ず使い物にならない日が出てくる。女性の筋トレ動画を相当な時間見た記憶はあるが、外に出ず筋トレもさぼったので運動もなし。

かろうじてシャワーだけなんとか浴びてビール飲みつつ加藤義一「痴漢電車 びんかん指先案内人」。城定脚本作。加藤監督の汁に対する異様なこだわりは随所に感じられたが、城定監督作に比べて画面の弱さと俳優陣のダメぶりが目立つ出来。とはいえ柳下さんが書いていたが痴漢の奥さん役の人はよかった。ほうれん草のおひたしが得意料理の。

お互い顔すら見ない痴漢の相互性を軸に据えた脚本はチャレンジング。触れ合った二人はその交流から勇気を得るも、直接結ばれることなくそれぞれの「運命の人」との関係へと戻っていく。わざわざ欲望と欲動の差が、とか考えるのはさすがに野暮なんだが、とりわけ男が痴漢した女をモデルにした小説がきっかけで出戻った妻を嘘をついて迎え入れるところは素晴らしかった。こういう再婚喜劇はキリスト教圏ではそんなに撮られていないのでは。つかの間の関係を築いた二人が最後に偶然向かいあう場所の選択にも納得。電車で出会った二人はやはり踏切で再会しなければならない。

 

0509

10時起床。午前中はベランダで日記とか。この時間で論文書くサイクルにせんとくん

昼食べつつTedでJ.D.Vance。ヒルビリー・エレジー前夜というか、自分がいかにやばい毒親と地元の環境から抜け出したかという話。

『ミメーシス』今日も二章分。ユダヤ人であるアウエルバッハがWWII中に移住先のトルコで書いていたという背景が有名だが、戦争中に馴染みのない場所に暮らしていてこういう本が書けるというのは、緊急事態下で何ができるかという話ともちょっとつなげて考えてしまいたくなる。三章はアンミアヌス、ヒエロニュムス、アウグスティヌス。アンミアヌスでは人間らしい感情や合理性が後退、代わって怪奇さ、不気味さ、悲壮さが浮上101-2。ヒエロニュムスは現世否定、暗澹、陰鬱122。アウグスティヌスの引用では、「彼の魂は汝(神)に依り頼むべきであったのに己れに依り頼んだためにそれだけ弱かったのである」125というくだりがまさにself-relianceの逆で興味深い。キリスト教の希望と文体。

キリストの言動を伝える文体は、古代の意味からは洗練された文体ではなく「漁夫の言葉」(sermo piscatorius)に他ならない。しかし最も優れた修辞的・悲劇的な文学作品にもまして、感動的であり、強い印象を与える言葉が記されている。なかでももっとも感動的なのはキリスト受難の物語である。王者の中の王者ともいうべき人b痛が賤しい犯罪者として扱われ、嘲笑され、唾を吐きかけられ、鞭打たれて十字架にかけられた物語が人々の心を強く捉えるようになるや否や、この物語は様式分化の美学を完全に打破してしまったのである。すなわち、その結果として、日常生活を蔑視することなく、感覚的な現実の事柄を描き、醜く無様な事、肉体上の欠陥さえもどしどし記述することを躊躇しない、新しい型の荘重体が発生することになった。あるいは反対の言い方をするならば、新しい謙抑体が生じたのである。本来なら、もっぱら喜劇や諷刺文を書くのにふさわしいような低俗な文体、「謙抑体」(sermo humilis)がいまや本来の範囲を越えて、もっとも深みのある、またもっとも高貴な作品、高尚な永遠の作品の中にも侵入してきたのである。132-3

終盤はアウグスティヌスに「比喩形象」、神に収斂する垂直の関係を読む旧約ー新約からの流れ。4章はグレゴリウス。古代後期の作家たちに見られた文体の硬化、修辞上の工夫の行き過ぎ、不自然でわざとらしい緊張しすぎた陰鬱な雰囲気etcの前景化を受けて、彼は暴行、殺人が日常茶飯事である環境に生きながら、事物と直接的な関係を結ぶ感覚的現実を表す口語としての地方語を用いて、洗練とは無縁でも実際的で素朴な溌剌さとともに恐ろしい出来事を伝えた、と。

今日はビックカメラに用があったので走るコースを変えて渋谷へ。思ったより普通に人がいたのでこっちのコースはやはり使えないか。店舗入口での検温を初体験。帰りに見えた代官山方面の飲食店も各店大変そうだった。今日はECD聴きつつ5km。これからうざい無茶振りメールにはひたすらこの曲の歌詞を返信していきたい気持ちになった。「関係ねーって言ってやれ あいにくご期待にそえません」、「もうちょいうまくできんだろ 頭使え 頭使え」。

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夕食時はピンカーのTed二本。暴力をめぐる通念をひっくり返す話は、統計マジックめいた部分もあるものの、暗いニュースばかりで気が滅入っていそうな大学生に見せるにはいいかもしれない。あとは頭の回転が異様に速いのがよく伝わってくる話し方だった。減速して観るよう勧めたほうが良さそう。

プランク180秒まできたがこれは結構きつい。そろそろ限界のような。論文ようやくmenu1/4まで。寝る前に城定『新高校教師 ひと夏の思い出』(2004)。ベタに徹した時の職人芸がフルに発揮された最初の例か。美しさがどうかしている小沢菜穂に起きる変化は、様々な小道具の運動とリンク。一度は直った扇風機がまた壊れること、バウンドし続けるバレーボールがいずれ止まることは彼女の意思に関わりなく起こるが、くすねたハーモニカを元に戻すこと、薬屋を殴って彼にもらったハイヒールの踵が壊れることは彼女自らの意思によって起こる。前者から後者への変化は、高校時代に果たせなかった告白を五年越しで果たすことで導かれる。この告白を実現するためには、つかの間の不倫関係がどうしても必要だった。うますぎる。同じ男への愛を共有するツンデレ不良女子とのシスターフッドが生まれていく過程も感動的。小沢によって万引きへの逃避から引き戻された彼女もまた、神代を思わせる海辺の自転車訓練を経て成長していく。小沢との距離が縮まる場面はまさかの海辺小津構図。なんなんだ。盗撮男子やパン屋の二人まで含めてなんらかの前向きな前進へと至るご都合主義的な展開は、ラストですべて完璧に回収。かつての関係の象徴としてのピアノ曲が最後には惜別の歌へと変わり、結ばれることではなく別れが成長の徴となる点まで含めてお見事。

0508

朝、昼食事中にTed。シェリー・タークルとロクサーヌ・ゲイ。どっちも簡潔にまとまってるし笑いもとってるしいい感じ。特にゲイはスタンダップ・コメディアンも真っ青なレベルで受けまくっていた。さすが。

『感性的なもののパルタージュ』2章。そんなに噛み砕いて理解できている気はしないが面白い。主に絵画を例に、ミメーシスを規範として受け取るのではなく、その「外への跳躍」を「形象化の拒否」とは異なる方向から再検討する。

ミメーシスの外への跳躍は、形象化の拒否では全くない。そして、その跳躍の端緒となる契機はしばしば<リアリズム>と呼ばれたが、これは類似の重視を意味するのでは毛頭なく、類似が機能していた枠組みの破壊を意味するのである。...芸術の美的=感性論的体制匂いては、芸術の未来、すなわち、それが現在において芸術に非ざるものとのあいだにもつ隔たりは、絶えず過去を舞台に乗せ直すのである。27

特に名指しはされていなかったがメディウム・スペシフィシティの議論が明らかに踏まえられている感。あとこの本だとアリストテレスとリクールの議論が主な前提っぽいが、ミメーシスといえばこれをそろそろ読まんと、ということで午後はアウエルバッハ『ミメーシス』を二章分。一章はホメロスvs旧約。

相対立するこれら二つの文体は、二つの基本型を表している。すなわち、一方は、すべてを入念に形象化する描写、均一な照明、隙間のない結合、自由な発言、奥行きのない前景、単純明瞭な一義性、歴史的発展や人間的・問題的な要素の乏しさ、という特色を持っており、もう一方は、光と影の際立った対照、断続性、表現されないものを暗示する力、背景をそなえた特性、意味の多様さと解釈の必要、世界史的要求、歴史の展開に関する概念の形成、問題性への深化、などの特色を持っている。51-2

ひとまず押さえるべきは表層ー深層の対立なんだろうけど、 前者(ホメロスのリアリズム)の特徴はパンフォーカスの映画とか、アイン・ランド⇨俺Tsueeeとかに繋がっていく要素すらあるような。二章はペトロニウスタキトゥスvs新約。ここで早くもtypology思想の根幹が。

聖書の内容全体が解釈次第でどうにでもなり、しばしば読者または聴衆の注意を感覚的事象から意味のほうへ向けておいて、そこに語られている事柄をその感覚的基底から遠く離してしまうようなことが行われた。従って事象の具象性が意味の厚い網の目にとらえられて硬直し、死んでしまう危険があった。...しかしこの二つの事件が、...といったような説法で、たがいに関連づけられて解釈されると、感覚的な事象は比喩的な意味に圧倒されて消え失せてしまう。 93-4

 現状、一応作者の意図をベースに書かれていることもあり、思ったよりは素朴な印象。各作者の関心以上に何に無関心だったか、がむしろ重要な局面も。ホメロスタキトゥスにおける階級意識の不在とか。

昨日腹筋したからかプランク150秒ですでにきつい。からの今日も漢聴きつつ5km。3曲に一回ぐらいは吸ってまーす!とリリックで宣言していて笑ってしまう。「需要と供給 年中無休でポリスとガンジャをうまく巻く」(My Money Long)。

夕食時はダマシオのTed観たが、これは文系の学部生だとちんぷんかんぷんな人も多いかもしれない。夜論文ちょっぴり進めたあたりで大量の謎事務連絡が来襲。そもそも授業開始日を勘違いしていたものすらあることが発覚したりで狼狽。雑談電話しつつとりあえず対応したが、先が思いやられる。

寝る前にビール一本だけ投入して城定『若妻痴漢遊戯 それでも二人は。』。痴漢という題材にもかかわらず女性エンパワー要素に満ちた再婚喜劇の秀作。バッド・フェミニストがらみの例で紹介したいぐらい。痴漢といえば電車だからか?遠景に電車を写しこむ構図や踏切演出には結構凝っていたような。「いきなり故障した」洗濯機視点でヒロインを捉えたファーストショットと「勝手になおった」洗濯機で洗濯を再開する彼女からのUFOで締めるラストショットの呼応。夫婦の関係は、夫婦生活の根幹を成す要素の一つである洗濯をめぐる状況によって象徴される。本作でヒロインに影響を与える出会いはすべて洗濯機の故障によって通うこととなったコインランドリーで起こる。メガネ教師が逆上がりで始まるやつ(タイトル失念)など、最初と最後のカットを対応させてヒロインの変化を象徴させるパターンは時々使っている気がするが、その最初の例か。コインランドリーで再会したイメクラ嬢とビルの屋上で夜景見ながら飲むところも妙によかった。

0507

だが結局のところ、この無差別とは、エクリチュールのページの上に到来し、あらゆる眼差しに差し出されるすべてのものの平等以外の何であろうか。この平等が、再現=表象のありとあらゆるヒエラルキーを破壊し、そしてまた、読者の共同体を正当性のない共同体として、すなわち、文字(レットル)の不確定的な流通によってのみ描き出される共同体として創設するのである。(ランシエール『感性的なもののパルタージュ』10-11)

10時すぎになぜか隣のマンションに住む子供の声で起こされる。

午前ベランダで現代思想の感染特集から気になっていたものを。アガンベン、ナンシーらの寄稿は即レスすぎて特に練られた内容でもなく、わざわざ批判する意義もないぐらいどうでもいい内容だった。ただ自分のような人間ですら、これが「剥き出しの生」か、となってコロナ騒動発生後にアガンベンの本をはじめてちゃんと読んだぐらいなので、本人がコロナと過去の自分の議論を重ねたくなるのはさすがにそうなるだろとは。まあ当時から批判されていたみたいだが、なんでも剥き出しの生、なんでも例外状態と騒いでしまうと本来の批判的な価値も薄れるという面は間違いなくあるだろう。ジジェクのは相変わらず。キューブラー・ロスを引きつつ否認⇨怒り⇨取引⇨抑うつ⇨受容のサイクルをしつこく当てはめてベタな世間の声?に冷水を浴びせまくる一連の流れはまあピュアな左翼の神経を逆なでする効果はあると思ったが、それだけ。ウエルベックもそんなようなことを書いていたが、コロナは正面から見据えても知的にはつまらない対象、というのはあるだろう。むしろHIVや人類学などに引きつけた議論の方が頷く部分が多かった。引かれていたエイズをめぐる浅田彰と柄谷の対談は読んでいなかった。その他、先日友人に勧められたばかりのチェルノブイリルポと関連づける記事なども。

MUBIの視聴期限が迫っていたのでかなり久々に昼映画。映画館がなくても締切がないと映画が観られない....。ジョエル・M・リード『悪魔のしたたり Bloodsucking Freaks』(1974)。監督がコロナで亡くなってしまったそうで特集されていた。金がかかってなくてもはっとさせる効果抜群の照明など、細部の職人技や工夫が光っているのに加え、トロマ作品的なものに関する自意識を潜ませつつ笑い飛ばす脚本も愛おしい。同僚の足を切り落とす脅しのテクニックで奴隷にされた一流バレリーナが、主人公?の舞台監督による前衛的な演出で磔にされた批評家を蹴り殺すことで、彼の作品をくだらないまがい物として一蹴した批評家への復讐が果たされる。背後からのどぎついスポットライトに照らされたバレリーナは意味もなく上着を脱ぎ、乳を放り出しながら大谷の顔面ウオッシュを思わせる勢いで縛られた批評家にハイヒールで蹴りをかます死霊の盆踊りレディ・イン・ザ・ウォーターとプロレスが合体したような奇妙なオープニング・ナイト場面に感動。破茶滅茶なラストも完璧。

夕方から筋トレ、三日ぶりに外出して5km。サブスクが消されたらいやだなと思い漢のソロアルバム聴きつつ。さすがにあのレベルだと警察にもある程度お金とか握らせて捕まらない仕組みになっているのかと思っていた。塀の中は何よりコロナが心配。

論文を進めるはずが優先順位低めの仕事ばかり進めてしまう。一つ根本的に内容を変えないとまずそうな授業の準備にTedを見始めた。なんとなくノリが嫌いだったので見るものかと思ってきたが、まあ短くまとまってて面白いのは確か。とりあえずビル・ゲイツパンデミックについての講演から。コメントに「この男はwindows95から長年ウイルスと戦ってきた」とか書いてあって笑った。

TSUTAYAも閉まっている中、仕事でいろいろ観る必要が生じ、仕方なく一ヶ月だけFanzaのピンク映画chに加入することにしたのだが、もたもたしていたら半額キャンペーンがGWまでだったらしく朝に終わっていた。悔しい思いを抑えつつ倍額払って加入。まあ寄付だと思うことにする。城定『味見したい女たち』(2003)。デビュー作にして、食卓や押入れ、縁側といった日本家屋の空間を生かした演出、覗き-覗かれの反転、古典的な曲の引用、中盤以降の鮮やかな転調など、その後の城定作品の定番といえる要素がすでにほぼ出揃っていることに驚く。特に隣家のプレイも含めてほとんど後ろ暗さを感じさせない覗き周りの演出のカラッとした感触には驚かされた。二重生活と覗きの関係は『人妻セカンドバージン』を(あれは屋根裏だったか)、覗きの反転のテーマからは『悦楽交差点』などを即座に想起。深田恭子似の主演があまり演技がうまくないことも性格と結びつけセリフの練習のくだりとして昇華しており見事。テロップの使い方は漫画をたくさん読んでいることが活きているのか。数撮っていくうちに完成されていったのかと思っていたところもあったが、わりと天才的な要素もある人なのかもしれない。

 

0505

ようやく論文に着手も思うように進まず。もともとあったものを入れて800words強。運動はベランダで多少日を浴びたのとプランクだけ。とにかく気が散る。ジジェク一章と、ランシエール『感性的なもののパルタージュ』訳者解説だけ。カント以上にシラーを盛んに引いているところは面白かった。政治と美学にまつわるあれこれ。

 

生きることに味わい深さを与えるのは生である。幸福にめぐり合ったときに失われるのは幸福だという自負である。何も感じないということ以上に、人間にとって自然なことはない。だが、欲望の終わりがたんなる休息だということは、人間の究極的な絶望の原理にほかならない。(ブスケ『傷と出来事』)

 

0506

オンラインで個別指導、オンライン授業用の資料をアップし、オンライン授業で出された課題を提出していたら午後が終わった。このへんの作業と読書、執筆、生活全般がすべて同じ空間で行われていることが非常にまずい。メリハリのかけらもないしやたらと疲れる。もし今自分が学費なしで休学できる学部生だったらこんな状況で授業を受けるだろうか。

とはいえ、七年も前のレジュメを引っ張り出してきてバーコビッチまとめ直せたのはまあよかった。90sジジェク本は、やけくそ具合が今ほどではなくユーゴやルーマニアなど周囲の政治状況から強いられて書いているのがありありとわかる筆致。カンフーパンダがどうとか言い出して以降と比べるとユーモアの質がガルゲンフモールっぽい。

爆笑問題カーボーイの岡村についてのところを追っかけで。問題のラジオを一切聴かずに署名してる人にこそ聴いてほしい内容だった。一部そんなに同意できないところもあったけど、とにかく誠実。結局は大衆芸能だから何を求めるか決めるのは客の側、と断言していたのもよかった。そこからの連想で昔ユリイカ三浦俊彦が書いていた談志の「マニアックな客」問題を久々に思い出したり。

 

夏の青さは脅迫的である。コキジバトの色をした森に吹き荒れる嵐のように、そこでは鳩が地面に叩きつけられて死んでいく。昨日、私は外出した。帰宅したのは別の男だった。(ブスケ『傷と出来事』)

 

 

0504

誰もが自分自身に囚われの身であり、誰もがその牢獄の壁だけに言葉を書きつける。だがその牢獄が彼に解放をもたらすのである。

(ブスケ『傷と出来事』)

 朝は十時に起きられたが朝食後もどうも眠いので十分だけ、と思ったら追加で一時間ほど寝てしまう。ここ数日軽くさらっていた研究書のまとめをひとまず終える。読書ノートなど一切つけず常に短期記憶でなんとかしてきたが、さすがに非効率的すぎるので最近は少しだけ記録をつけるようになった。といってもworkflowyで引用プラス一言コメント程度だが。簡単に階層化できるのは案外侮れないということに今更気づいた。

昼食べながら「カメラを止めるな!リモート大作戦!」。もちろんヒット作セルフパロディゆえの限界はあるものの、元の作品では言い訳としても機能していた映画内映画の稚拙さが、本作ではあくまでも演者から観客まで、あらゆる映画と関わる人間の笑顔を見たいという素直さと関わるものとして表現されていて、むしろ前作よりも好感を持った。

夕方、十年以上ぶりぐらいで一番ちゃんとしてたころの?ジジェクを。『否定的なもののもとへの滞留』4章まで。言ってることは本当に三十年ぐらい全く変わっておらず、ブレていないといえば聞こえはいいが、毎年手を替え品を替えこいつは何をしているんだという気も...。とはいえカントとヘーゲルのくだりはやっぱり面白い。

ベランダ⇨屋内を移動しつつわりと長時間zoom。ログインしそこねた回で友人カップルのなかなかの修羅場が展開されていたという話など。最近落語を聴いているという話題からの流れで友人に言われて思い出したこと。高校で教えていたころ、教室に馴染めず保健室登校をしていた学生とたまに一緒に昼ごはんを食べていた。彼が最近落語にはまっているというのでどんな噺が好きか聞いたところ、食い気味で「死神」です!と返ってきて、いろんな意味で見込みがあるなあと思ったものだが、文学部を受験すると言っていた彼も今頃現役なら新卒になっているのか。明るくなりすぎずに元気でやっていてほしい。