20200406-09  緊急事態第1週前半

0406

本当であれば新年度の今日から平日は毎朝早くから仕事の日々が始まるはずだったのだが、コロナで4月はほぼ自宅待機になってしまった。十年ぶりぐらいだが、少なくとも緊急事態宣言が解除されるまでは日記を書こうと思う。

 

カヴェルの講義録Cities of Wordsからロールズ章。いくら同僚でも怒られないのかという『正義論』へのクソリプぶりが凄まじかった『道徳的完成主義』に比べると、かなりわかりやすい順を追った議論になっていたような。

カヴェルはトップダウンで決められた規則に同意する形で形成される正義に対して、正義の対話を対置する。ゲームが道徳生活を例示illustrateするというロールズ初期論文の議論を引きながら野球のルールのたとえ話をしている箇所が面白かった。「ストライク4つでアウトでもいいすか?」と質問するやつの扱い。ルールに挑戦する人物をここで野球を知らないか冗談を言っていると解釈するロールズに対して、カヴェルは「頭がおかしいか、野球がなにかだけではなくゲームをプレイすることがなにかわかっていない可能性もある」とする。道徳生活においては、ゲームを定義するルールの役割を果たすものは存在しない。あらかじめそういったものが存在し、プレイヤーの責任がどのようなものか全てわかっていればそのゲームを実践practiceすることができ、それをプレイすることができるが、道徳生活においては規則への挑戦はより議論に開かれている。この辺りから規則への議論が約束とは何かへとスライド。

『正義論』64節「熟慮に基づく合理性」における、「合理的な個人はつねに、自らの計画が最終的にどのような結果になろうとも、自分を決して非難する必要がないように行為すべきである」、及び「熟慮に基づく合理性に従って行為することはただ、私たちの行いは非難の余地がなく、しかも、私たちは時間を通じてひとりの人間として自分自身に責任を負う[配慮している]ということを確実にするだけである」(強調筆者、555)、とりわけ「非難の余地がない」という記述にカヴェルはひたすら噛み付く。(さすがにここでの記述はロールズも文字通りの意味ではなく議論の要請上必要な仮定として出しているだけだと思うのだが、そこにひたすら澄んだ目でマジレスをかましていくスタイルがおそらくカヴェルの一番面白いところ)「非難の余地がない」という表現は、お前はゲームのルールわかっとらんな、と言ってるように聞こえるし、他者を道徳的に不十分な存在であると示唆していることになる。原書344でロールズは、「約束は公的な規則のシステムによって定義される行為である」、としているが、そこにカヴェルは疑問を差し挟む。約束は決してpartialityや不完全性を避けることはできない。守れない約束や自分との約束に関するコミカルな例をあげつつカヴェルは、「自らの妥協に対する無防備さ」と彼が呼ぶものとともに生きること、すなわち再婚喜劇映画におけるパートナー、対話相手からの批判、非難への応答を通じて変化を続けながら生きていくscrewy気のふれた笑?個人像を、ロールズの「合理的な個人」に対置する。ロールズの議論の上から目線の厳密さを批判しつつ、なんとなくダメ人間の自己肯定じみた雰囲気も感じさせるほっこりムードの結論に持っていくあたりがいかにもという感じ。

書いてから気がついたが、これを読んだのはおそらく4日だった。6日は対談原稿の構成をチェックして送信したんだった。こちらで考えた質問ベースではなく構成のみははじめての経験だったがこれはこれで難しい。

明日から大学が閉まるということで慌てて図書館他へ。必要な資料を全部かき集めたつもりがいくつか忘れてきてしまったが、今更どうにもならない。家と大学往復で自転車一時間ほど。

夜「いだてん」を再放送で見始めた。先日までの畔倉重四郎も終わってしまったので食事中に会話しなくてすむための日課が必要だったところに五輪延期も相まってちょうどいいタイミング。さすがに攻めすぎではという構成にびっくり。webで限定公開されていた細馬さんの時評に出てきた破裂音pをめぐる指摘のあまりの鋭さに二度びっくり。役所広司の「平和 paix ぺ」。

 

0407

ニーチェ「教育者としてのショーペンハウアー」読み直してカヴェル本ニーチェ章。近所で5キロ。帰宅後風呂で『無能な者たちの共同体』2章分。『英語冠詞大講座』演習。

厳密にはどの日だったか忘れつつあるが、限定配信で色々観た。そういう柄ではないはずがストローブの新作短編でちょっと感動してしまった。日差しと白鳥の有無だけで色々と喚起されてしまう不思議。

 

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カヴェル本プラトン章、『国家』の関連箇所。近所で5キロ。帰宅後風呂で『無能な者たちの共同体』2章分。初zoom飲み少々。『英語冠詞大講座』最後まで。まじで冠詞難しい。びっくりするくらい間違えるのでもう一周ぐらいはしないとか。

spotifyプレイリスト聴きつつ『ポップミュージックを語る10の視点』4章分。

1章、最後の坂本龍一未来派野郎」をヒップホップに対する太平洋を隔てた国からのアンサーとして聴くくだりが面白。

www.youtube.com

2章はだいたいJTNC経由で聴いたものが多かったが、改めて影響元からの流れに位置付けて聴き直すと発見がいろいろあった。ノーマークだったものとしてはフュージョン関係、特にアラン・ホールズワースは聴いてみようかと思った。

3章、フェスの時代のもろ当事者としては世代論でざっくり分類されることに対して当事者的な抵抗を感じもしたが、まあそういうのは織り込み済みの研究ではあるだろう。最後に新世代バンドとして紹介されていたCar Seat Headrestは聴いたことなかったけどエピソードといい曲といいボーカルの面がまえといい完璧だったので色々掘りたい。

5章、カーダシアン家のリアリティTVはいずれ研究とかで観なければならなくなる可能性もありそうだけどさすがに後追いするには歴史が長すぎて厳しそう...

深夜、ウィンターボトム『キラー・インサイド・ミー』、ストレスフルな状況下で観るのにぴったりの一本だった。未読だけど原作が良すぎるんだろうというのと、ケイシーのサイコ野郎演技が完全にツボ。ジェシカ・アルバを壁際まで吹っ飛ばすまでの流れが良すぎてそこだけ二回観た。

 

 

0409

カヴェル講義、プラトン関連を読み終える。一応一旦はここでひと段落ということに。

夕方から自宅で初のオンライン講義、と思いきやwifi弱すぎて接続できないので断念。教材を取りにいく用事ももあったので塾から中継することに。まあ取り立てて問題はなかったが、家でやるとなるとホワイトボードがないのをどうするか。買う金はない。塾にも着々とコロナの魔の手が迫っていそうでなかなか怖かった。

防音をなんとかしないとそろそろ自宅で勉強するのも限界ということで帰りに電気屋Airpods pro購入。自転車で往復45分ほど。

夜、ノイズキャンセリング初体験。あまりにも雑音が消えるのでカルチャーショック。これで居間のテレビ音声まる聞こえの自室でも諸々なんとかなるかもしれない。

最近、やや寝つきが悪いので就寝前にASMR動画を試しに聴きはじめている。触覚的な刺激が非常に制限される状況で無意識にそうしたものを欲しているところがあるのかもしれない。どちらかというと環境音に含まれるある種のノイズを強調するようなベクトルのASMRは、ノイズキャンセリングと対極に位置しているようで案外似た需要があるのでは?とちょっと検索してみたらASMR体験の質を上げるためにノイズキャンセリングが推奨されたりもしているようだ。