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感性主義のイデオロギーとは、実在の力と、魂につけられたその傷跡しか考えない立場のことであり、そのとき、正しい名とは傷つけたものとそれによってついた傷口との一致ということにほかならないだろう。そこで忘却されるのは傷の置き換えのメカニズムとしての言語である。名は言語なのである。傷そのものではなくて、その置き換えなのである。そのような置き換えられた傷としての名こそが、何ごとかを呼び出す力を持つ。

(田崎「名の間違いについて——哲学者と詩人の生」156)

 

昼起きる。自分はお肉券とかマスクの方が余程腹が立ったが、Twitterでは星野源と安倍のやつで大騒ぎになっていた。神田伯山「グレーゾーン」初演。まさかのミスター高橋本と八百長の話。グレーゾーンってのがいわゆる「虚実皮膜の間」のことだったとは。真壁のスピアーの角度とか細かい話が全部わかってしまうのも含めて楽しめた。

さらに日課増やしつつ論文進めるため、「集中」というアプリを導入。ポモドーロとか何度かやってみてはうまくいかなかったがこれはシンプルで結構いい感じ。起動中にうっかりスマホを触ってしまってもそこからダラダラ見る方向にいかない気がする。

At Emerson's Tombざっくり必要なところだけ読んだ。97年の研究書だが当時の雰囲気がかなり濃厚。文学史キャノン作家のアフリカ系及び女性に対する軽視を、特にエマソンにおいては傍流のテクストをあえて持ってきながら批判しつつ歴史を再構成。Self RelianceとRepresentative manへの服従が矛盾するところをどう誤魔化しているか、の議論は、似たようなものを読んだことはあるがある程度納得はした。Bercovitchの批判的まとめは有益。最近やり尽くされた古典研究に新味を出すために、ある程度定番化した論文を歴史化する流れがあるような気がするが、そういう観点でいうと仮想敵としても便利に使えるかもしれない。そんな作業は不毛なのでは、とか考えていては査読に通る論文は書けない、というのはおかしいとも思うがそこは一旦忘れるしかない。

今日はランニングはなし、家から出なかった。夕食後、日記書きつつミルクボーイと伯山ラジオ最新回。すでに金属も、次回から伯山もそうなるようだが、ラジオは外出できずともなんとかリモートで続くのだろうか。夜プランクとスクワット、プルだけ。風呂で『無能な者たちの共同体』2章。

Twitter糸井重里の話題からの流れでMOTHER2について話したせいで無意識に観たくなったのか、夜中にロブ・ライナースタンド・バイ・ミー』。シャマラン経てダファー兄弟やブリット・マーリングに至る流れの一つの原点。原作がノヴェラだから100分弱の尺でばっちりハマったという側面は間違いなくあるだろう。焚き火でするオチのないゲロの話最高。手を振って消えていくリヴァー・フェニックス

 

 つまり、人間の声はいつでも単声的ではなく多声的なのだ。だが、その多声性は、ミメティックな力に負っており、その起源にあるのは、自分を脅かす力を貪り食ってしまったという幻想である。そもそも私たちが事物の名を呼べるのは、その事物を私たちが幻想的に食べ、破壊してしまったからで、名はその起源からして事物の破壊、置き換えである。ちょうど人間の自我が、貪り食ってしまった他者の残りかす、亡霊であるように、すべての事物も、名として言語において、置き換えられつつよみがえるとき、それは自我ないし自己なのである。言語が、あるいは、名が、そのミメティック=記述的な性格と召喚的=遂行的な性格との分離しえない二重性をもっているのは、このためである。 

 名がこのような、破壊=置き換え=復活である以上、その正しさは、傷つけた槍とその傷口が一致するような意味での類似に基づくのではない。名は、事物の、死後の生という意味でのサヴィバルである。名は、事物の、見る影もなく変わり果てた姿なのである。言語はこのように死後の場所である。だから、シェリーは、数々の何、死者への呼びかけを委ねるのである。...

シェリーはアドネースに直接呼びかけることはできず、キーツを失った苦痛は、それ自身との同一性から引き剥がされ、けっして何とも一致することはない。何もそれを正確に埋めあわせることはできない。だが、まさにそれゆえにこそ、詩人の「私」は、思念から、個人的で社会的な生——車騎的分業の中でのポジション——から解放される。互いの思念を、生を認めあう、相互承認的な今日同種感性とは違う共同性が、言語によって可能となる。生の交換、意味の交換とは違う共同性、他者の廃棄への罪の意識ではなく、他者の廃棄としての「私」におけるコミュニケーション、文化kulturではないような共同体。

 哲学者と詩人の生が求める共同性とは、このような、言語の存在だけを——個々の発話の意味ではなく——共有するものであるだろう。158-60

 

就寝前、「傷の置き換えのメカニズムとしての言語」という視点と監禁生活との近しさから、長年枕元で積ん読状態だったジョー・ブスケ『傷と出来事』を読み始めた。