0414

「自我」というのは、「他者の廃棄」の記憶によって生み出される「疚しい意識」であるといえるだろう。「他者の廃棄」の記憶につきまとう疚しさから、すべてを自分の記憶として、いいかえるならば「自分にとっての存在」、それ自身からするなら「他者に対する存在」として自分の中にとりこむのである。したがって、すべての存在が「自己」たりうるためには、「他者の廃棄」の完全な廃棄が必要なのである。そのとき、すべての存在は、誰か特定の存在者(国民、異性愛者、植民者、世界資本主義、などなど)に対して存在することを止めるだろう。

(田崎「作品とその死後の生——時間性なき歴史の概念のために 」171)

 

たしかに、私たちはもはや言語について素朴な記述の理論に後戻りすることはできないだろう。しかし、それでは、言語の遂行性を無批判に受け入れて、それで事足れりとしていてよいのだろうか。

 何かの、あるいは、誰かの名のもとに語ることは遂行的発話の最たるものである。それは、ベンヤミンが神話的暴力の原型として捉えた顕現manifestationそのものであり、それは自らを命名し、そのようなものとして受け取ることを他者に強要する。つまり、非自我/自我の措定という遂行的な行為performanceである。

 だが、名は、むしろ、遂行中断的aformativeである。神的暴力は何かの名のもとに語りはしない。それは端的に名なのである。171-2

 

「他者の廃棄」の完全な廃棄。

昼起きる。昨晩寝つき悪く二度寝までしてしまいさすがにちと反省。

夕方まで全く頭が働かず無為に過ごす。日が暮れる直前に3日ぶりに無理して家を出てLaurel Halo 新譜で5km。どうしたんだというぐらい暗いアルバムだった。わりと意識してみたが5m常に開けておくのはなかなか難しい。後ろから追い抜かれるパターンと狭い道ですれ違うパターンはなかなか回避できないような。

風呂で「無力な〜」2章分。夜いだてん5話。主人公が子供のころ果たせなかった嘉納治五郎に抱っこしてもらうという念願を果たす場面、これでもかというぐらい回想シーンを突っ込んでわかりやすく伏線回収していることを明示していた。まあ初回が異常でこのぐらいの塩梅が大河ドラマの常道なんだろう。

今日は新しいものを読まず、Berlantがよく参照していると思しきカヴェルの講義"The Uncanniness of the Ordinary"のまとめ。話飛びすぎで最後までまとめる前に疲弊。フロイトのホフマン「砂男」解釈とラカンのポー「盗まれた手紙」解釈の細部をそれぞれ批判する手つきは、哲学なのか文学なのか精神分析にも片足突っ込む気なのか、あらゆる学問ジャンルの境界線をまたぎまくるカヴェルの面目躍如という感じ。

www.youtube.com

 

「タイムトラベル」を見て、昨日のコアベル公演も含めて平倉圭『かたちは思考する』から関連章を。どちらも線的に紙の上で分析・記述するのはかなり難しい対象で、書籍という形式を極限まで酷使しようとするようなスタンスで書かれている印象を受けた。どこまで作品自体のあり方に即して複数の思考を同時並行で走らせながら書けるか、という。とはいえ自分としては連続写真+解説だとなかなか議論を追いにくいところがあるので、映像メディアで資料+講義みたいな形式で発表してくれた方がありがたいような気もする。

 

考えることが含意しているのは、社会契約への何がしかの留保なのである。それは、コミュニケーション能力の枯渇した先に、あるいは、コミュニケーション能力の手前にある。つまり、幼年期である。思考、すなわち、魂の最も高貴な場所であり、公共性そのものであるその場所には、社会から追放された、ものいわぬ子どもがいる。

 考えること、抵抗すること、それは、ものいわぬ子どもの仕事でなくていったい何であろうか。思考とは何よりも言語(の使用)の抵抗なのだから。(「思考の在り処 」183)