0509

10時起床。午前中はベランダで日記とか。この時間で論文書くサイクルにせんとくん

昼食べつつTedでJ.D.Vance。ヒルビリー・エレジー前夜というか、自分がいかにやばい毒親と地元の環境から抜け出したかという話。

『ミメーシス』今日も二章分。ユダヤ人であるアウエルバッハがWWII中に移住先のトルコで書いていたという背景が有名だが、戦争中に馴染みのない場所に暮らしていてこういう本が書けるというのは、緊急事態下で何ができるかという話ともちょっとつなげて考えてしまいたくなる。三章はアンミアヌス、ヒエロニュムス、アウグスティヌス。アンミアヌスでは人間らしい感情や合理性が後退、代わって怪奇さ、不気味さ、悲壮さが浮上101-2。ヒエロニュムスは現世否定、暗澹、陰鬱122。アウグスティヌスの引用では、「彼の魂は汝(神)に依り頼むべきであったのに己れに依り頼んだためにそれだけ弱かったのである」125というくだりがまさにself-relianceの逆で興味深い。キリスト教の希望と文体。

キリストの言動を伝える文体は、古代の意味からは洗練された文体ではなく「漁夫の言葉」(sermo piscatorius)に他ならない。しかし最も優れた修辞的・悲劇的な文学作品にもまして、感動的であり、強い印象を与える言葉が記されている。なかでももっとも感動的なのはキリスト受難の物語である。王者の中の王者ともいうべき人b痛が賤しい犯罪者として扱われ、嘲笑され、唾を吐きかけられ、鞭打たれて十字架にかけられた物語が人々の心を強く捉えるようになるや否や、この物語は様式分化の美学を完全に打破してしまったのである。すなわち、その結果として、日常生活を蔑視することなく、感覚的な現実の事柄を描き、醜く無様な事、肉体上の欠陥さえもどしどし記述することを躊躇しない、新しい型の荘重体が発生することになった。あるいは反対の言い方をするならば、新しい謙抑体が生じたのである。本来なら、もっぱら喜劇や諷刺文を書くのにふさわしいような低俗な文体、「謙抑体」(sermo humilis)がいまや本来の範囲を越えて、もっとも深みのある、またもっとも高貴な作品、高尚な永遠の作品の中にも侵入してきたのである。132-3

終盤はアウグスティヌスに「比喩形象」、神に収斂する垂直の関係を読む旧約ー新約からの流れ。4章はグレゴリウス。古代後期の作家たちに見られた文体の硬化、修辞上の工夫の行き過ぎ、不自然でわざとらしい緊張しすぎた陰鬱な雰囲気etcの前景化を受けて、彼は暴行、殺人が日常茶飯事である環境に生きながら、事物と直接的な関係を結ぶ感覚的現実を表す口語としての地方語を用いて、洗練とは無縁でも実際的で素朴な溌剌さとともに恐ろしい出来事を伝えた、と。

今日はビックカメラに用があったので走るコースを変えて渋谷へ。思ったより普通に人がいたのでこっちのコースはやはり使えないか。店舗入口での検温を初体験。帰りに見えた代官山方面の飲食店も各店大変そうだった。今日はECD聴きつつ5km。これからうざい無茶振りメールにはひたすらこの曲の歌詞を返信していきたい気持ちになった。「関係ねーって言ってやれ あいにくご期待にそえません」、「もうちょいうまくできんだろ 頭使え 頭使え」。

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夕食時はピンカーのTed二本。暴力をめぐる通念をひっくり返す話は、統計マジックめいた部分もあるものの、暗いニュースばかりで気が滅入っていそうな大学生に見せるにはいいかもしれない。あとは頭の回転が異様に速いのがよく伝わってくる話し方だった。減速して観るよう勧めたほうが良さそう。

プランク180秒まできたがこれは結構きつい。そろそろ限界のような。論文ようやくmenu1/4まで。寝る前に城定『新高校教師 ひと夏の思い出』(2004)。ベタに徹した時の職人芸がフルに発揮された最初の例か。美しさがどうかしている小沢菜穂に起きる変化は、様々な小道具の運動とリンク。一度は直った扇風機がまた壊れること、バウンドし続けるバレーボールがいずれ止まることは彼女の意思に関わりなく起こるが、くすねたハーモニカを元に戻すこと、薬屋を殴って彼にもらったハイヒールの踵が壊れることは彼女自らの意思によって起こる。前者から後者への変化は、高校時代に果たせなかった告白を五年越しで果たすことで導かれる。この告白を実現するためには、つかの間の不倫関係がどうしても必要だった。うますぎる。同じ男への愛を共有するツンデレ不良女子とのシスターフッドが生まれていく過程も感動的。小沢によって万引きへの逃避から引き戻された彼女もまた、神代を思わせる海辺の自転車訓練を経て成長していく。小沢との距離が縮まる場面はまさかの海辺小津構図。なんなんだ。盗撮男子やパン屋の二人まで含めてなんらかの前向きな前進へと至るご都合主義的な展開は、ラストですべて完璧に回収。かつての関係の象徴としてのピアノ曲が最後には惜別の歌へと変わり、結ばれることではなく別れが成長の徴となる点まで含めてお見事。