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午前追試小テスト一つ。午後はラジオいろいろ流しながらだらだら採点。半年完全に放置していたやつもなんとかして、とりあえず6コマ中2コマほぼ終了。プランクとスクワット。夕方近所で立ち読み。樫村論考はなぜかこのタイミングでタルコフスキー論だったので作品再見してから読むことに。

高橋ヨシキのシネマストリップ』からヴァーホーヴェンのハリウッド三作のところを。『トータル・リコール』はもともとクローネンバーグが監督する可能性があり、いろいろポシャってた企画をヴァーホーヴェンの『ロボコップ』に感動したシュワちゃんが彼に持ち込んで完成に至ったらしい。いい話すぎる。同作の徹底した二重性をわかりやすく解説しているくだりには膝打ち。ちゃんと読み込めてない層にも受容されたことで儲かったっぽいのはまあ納得。初期オランダ時代を全然観られていないのでゆっくりつぶしていきたい。

蓮實重彦「零度の論文作法——感動の瀰漫と文脈の貧困化に逆らって」。鈴木一誌によるインタビュー。書き始めるまでにどれだけ寄り道するかが大事、みたいな話はめちゃくちゃ目新しいわけではないもののまあ納得。PC、ポスコロ云々が過剰に重視される傾向に対して、「文脈間の階級闘争」の視点がないところがダメ、と切って捨てているところに一番膝打った。http://jun-jun1965.hatenablog.com/entry/20171121ここで猫猫先生も書いていた「学問とは何か」という問いについては、サイードを主な仮想敵としてお行儀のよい「文学研究」をディスりつつも、最近もいくつか博士論文の査読はしてまっせという点を強調しており、ダブスタっぽさはあった。

寝る前にケリー・ライカート特集延長戦で『ナイト・スリーパーズ Night Moves』。無料今月までだったので慌てて観た。結局配信も消えるなどのきっかけがないと観ないというのは我が事ながら皮肉。例によって爆破で全てが引っくり返るはずもなく、Old Joyにも近い微妙な気まずさをはらんだ時間がミッション達成後も続く。珍しく終盤は彼女にしては劇的な展開となるが、なぜか量販店でバイト始めようとする場面でやっぱり背後が気になる、からの店内鏡ショットで終了、という唐突な締め方は非常に良かった。冒頭のスプリンクラーショットから、ところどころ挟まれるロングショットなど撮影は終始決まっていてかっこよし。『ソーシャル・ネットワーク』でザッカーバーグ役やってたジェシー・アイゼンバーグの悩み多き二宮くんみたいな顔も、夢見がちお嬢様のダコタ・ファニングも、発言も行動も適当すぎていちいちアイゼンバーグ演じるジョシュをピリつかせるピーター・サースガードもそれぞれはまっていた。どう考えてもライカート作品のアンチ物語、アンチクライマックス要素に最も貢献していると思しき、かなり多くのライカート作品で原作と脚本に関わっているJon Raymond の小説は今年どっかでまとめて読みたい。

 

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昼過ぎから自転車で渋谷。

ヒューマントラストでキム・チョヒ『チャンシルさんには福が多いね』。冒頭の初期ホン・サンス作品をあからさまに意識した飲み会場面からの映画監督=ホン・サンス急死という展開には思わずガッツポーズ。当然彼との関係を読み込まれることは承知の上で、父殺しというほど劇的ではない喪失から緩やかな再生へと至る物語がとぼけたユーモアとともに展開されていくところも良かったし、監督が死んで女性プロデューサーが主役、恋愛もそこまでメイン要素にはならず、というあたりで初期ホン・サンス的なものを期待させる冒頭からの予測を巧妙にすかしつつ、結局彼女自身のキャリアを色濃く反映した作品を撮っているという意味では極めてホン・サンス的でもあるというバランスの取り方も非常に好みだった。ただ、後半主人公の重要な変化をかなり言葉で説明してしまっていたのだけはいただけなかった。月永さんがレビューで書かれていた「自分探しの物語ではなく自分のスタイルを探す物語」(大意)という指摘はその通りだと思うのだが、それを大家が家の中に入れた花との重ね合わせや、自らのこれからをめぐる独白で表現してしまうのは野暮だろう。前半の木の実とか近所の坂を登ったところに出てくるよくわからん健康器具とかの場面は良かったのだが。。。

少し時間が開く間にバイト先で源泉徴収受け取り、セール冷やかしなど。戻ってテレンス・マリック『ソング・トゥ・ソング』。『名もなき生涯』はもう少し別のテーマに踏み込んでいたが、この映画は時系列的には二作前のTo the Wonder、一つ前のKnight of Cupsと構造的に全く同じ話でさすがに笑ってしまった。まあキリスト教のことを四六時中考えていてカヴェル先生の教えが忘れられないんだろうけど、さすがにメンヘラビッチだった私も目が覚めたわ、これまで音楽業界の華やかさに目がくらんでいた俺もやっぱり肉体労働からやってくっしょ!みたいなラストでこれが現在進行形の再婚喜劇です、と強弁するのは舐めすぎだと思った。まあ、この辺の年寄りが急に日和って多様性が、とか言い出すよりはアフリカ系の起用法も露骨に差別的で、もうアップデートとかする気は毛頭ないっす、といった開き直りぶりにはうけるーとは感じたが。散々出てくるフェスはコーチェラかなんかなのか。映画がルベツキが撮ったハードコアバンドのモッシュピットで始まるのはこれは何を観させられているんだという感じで最高だったが、久々に観たのにあの撮り方には一時間以内に完全に飽きていた。数多くのカメオ勢の中ではなぜかパティスミスだけ結構大事な役を与えられていた。あと架空バンドでヴァル・キルマーが捕まるくだりが意味不明で笑った。ゴズリングは期待に反してベンアフよりだいぶ顔が映っていた。

夜は九龍ジョー編集のDidion2号「落語の友達」を。適当にいくつかつまもうと思ったら予想以上に面白く全記事読み終えてしまう。当たり前だが寄席でつながる友達の感覚はこの雑誌で補助線が引かれていると言っていいライブハウスにせよ、個人的に身近に感じる名画座や映画館にせよ似たようなもんで、しかも落語ファン界隈にはそんなにうざいシネフィルみたいな人もいないのか、皆さん楽しそうな筆致で読んでいても楽しかった。有名人よりも全然知らない方の寄稿の方が面白かったりするあたりも含め、最近の雑誌にはほとんど存在しない「雑」の要素が随所に感じられる一冊だった。これはストリップ特集も買うか。

 

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朝近所の工事と思しきドリル音で予定より早く叩き起こされる。

午前はTurkleのAlone Together2章まで。Introではテクノロジー万歳に近かった以前の著作から徐々に悲観的になっていく流れがまとめられる。以前読んだ次の本ではたまにはスマホの電源切ろうみたいな方向になっていた記憶があるので、この本が過渡期という感じなのか。1、2章は80sの自らの経験から書き起こして、自分の子供のエピソードや文学や映画の例も挟みつつ、たまごっち、ファービーあたりに至るロボペットの歴史を振り返る。知らなかったがもともと精神分析畑にいたらしく、ありがちだが フロイトの「不気味なもの」の概念をこれらのロボットに当てはめていた。電源を切ることの位置をめぐる議論や子供たちのリセット拒否の事例、あるいはたまごっちの墓のエピソードなどに子供なりの「喪の作業」の萌芽を見出し、たまごっちやファービーの「死」をどう捉えるか考えている箇所がここまででは面白い。意外にも『機械カニバリズム』とかと重なりそうな問題系。

昼食後、ベッドの上でジョー・ブスケ『傷と出来事』を読み終える。なぜか半年以上中断していたのを宣言開始を機にまた再開。ほとんどを緊急事態宣言下のベッドの上で読んだことになる。特にこの本については読むのにふさわしいタイミング、場所、時間があったと思う。あらゆる文化が傷自慢大会に近くなってきている現在こそ読まれるべき本のような気もする。

自転車でヴェーラヘ。ジャック・ベッケルエドワールとキャロリーヌ』(1951)。ただ痴話喧嘩してるだけなのに滅法面白い。特にパーティーの準備中にもめてるだけの前半の充実ぶりがすごい。いかにも気の強そうなアンヌ・ヴェルノンがとにかく可愛い。

ジョージ・キューカー『男装 Sylvia Scarlett』。キャサリン・ヘプバーンデヴィッド・ボウイかと思う男装が最高。親父が出っ歯のお手伝いさんに惚れた挙句嫉妬に狂っていくくだりなど、サブプロットがガチャガチャしすぎで後半はわけわからん展開だったが、コスプレが楽しかったのでまあよし。映画終えたところで久々にお仕事の依頼。ようやくちょっとやる気出てきた。

2ヶ月半ぐらいほぼ何も書いていなかったが、そろそろリハビリを開始ということで超絶今更の2019年ベストと日記を書き始めた。と言いつつ一旦書き出してしまうと計4300字ぐらいになっており、例によって加減を知らないのはなんとかしたい。

とりあえず宣言中は書く気だがいつまで続くか。