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昼から某最終講義。終わってから遅れていた書評原稿をなんとか仕上げる。夜はチケット買ってしまったエヴァの復習で破とQを。

 

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ホワイトデーの昼から渋谷で豊田道倫ソロライブ。おそらく去年の一月のMoodyman以来なのでだいたい400日ぶりぐらいのライブ。まあ椅子有りなら映画館と一緒なので特に怖さはなし。モッシュピットとかはまださすがに行きたくないが。とはいえ遅れて来て横に座ってた客がほぼ常になんかしらの動きをしてて大層気が散ったし、あまりに髪を弄り回すせいでそこから花粉が飛んできたのか鼻もえらいことになってしまったが、そういう不快な客と隣り合うのも考えたら久々だと妙な感慨にふけってしまった。

冒頭から若い女友達とモーニングした話などの色っぽい駄話を交えつつ、最近の曲多めのライブ。わりと昔のもので覚えてた曲は「ゴッホの手紙、俺の手紙」の一人バージョンぐらい。この曲はもともとバンド編成の曲だからだろうが、皆が知ってる曲はアレンジ変えたりする様子に少しディランの来日を思い出したりも。はじめて聞いた「赤ん坊みたいな50歳」で始まる曲がすごすぎた。最近特に一時期カリスマ化した人ほど、50代で本格的に時代とずれて老害化していくパターンがめちゃくちゃ多い中で、いつまでも赤ん坊みたいでいられる彼だけが、どう考えても歳をとるほどどんどんかっこよくなっている。自分は一切の虚飾抜きで、でも赤いジャケットとサングラスでかっこつけて人前に身を晒せるような50代になれるだろうか。最後の曲で少し泣いた。

夕方からTohoで『シン・エヴァンゲリオン』観た。以下ネタバレ。

 

 

Takeshi'sかつトイ・ストーリー4というか、失敗を運命づけられた蛇足としては最大限頑張っている感じはあった。作品として好きかと言われると好きではないけど、ゲンドウがあの電車に座っているシーンではボロ泣きしてしまった。まあ全部回収するためには二人が対峙するしかないというのは予想はついていたが、あんなにあっさりと父側から降りてきてクソダサい独白を長々あの声で始めるとはさすがに予想していなかったので、ついに庵野が還暦にして自己の中二性と正面から向き合ったのか、と妙な感動を覚えてしまった。自分はあまり思い入れのある世代ではないが、少し上の直撃世代の先輩たちを見ると、95年当時はおそらく庵野=シンジ=自分で感情移入しまくっている人がほとんどだったと思う。今回は自分の観た印象では庵野の中ではかなりの部分シンジではなくゲンドウに自分を仮託しているところも出てきていたような気がした。稲葉さんが書いていたように製作陣がヴンダーと考えるといろいろつじつまが合うところもあるな、とは思うが、まずはあれだけわけわからん用語を適当に振りまいて計画通りとか言ってきた男に「人付き合いが苦手だった」とか言わせてしまう素直さはすごいな、と。序盤のいや俺も『風立ちぬ』出たしね、ということなのかよ、「おもひでぽろぽろ」かよとツッコミたくもなる第三村の宮崎駿ー高畑ラインの里山感丸出しの村設定がわりと延々続くところは最初は勘弁してくれとなったが、まあこういうの見て育ったんで、これでいいわけでもないと思うけど、一応入れときますね、ぐらいの距離感だったのかも。最終的にみんな大人になってつがいを作って子供産んで社会に貢献します、みたいなシンゴジラ以上に真っ当な定型発達礼賛ぽい締め方には、スキゾとかパラノとか言ってた頃もありましたよね・・・とか思ってしまったが、とにかくメインキャラ全員成仏させなきゃ、というのは感じた。(RP1と同様、別に現実>虚構とか言ってるわけではないだろ、と言ってる人がいたのはまあそうかなとも。)そのモチベーションは必ずしもキャラクターや物語への愛着とかでもなく、スポンサーめちゃくちゃいたり社長だったりとも関わってそうで微妙だなとも思ったが、それも素直ということか。あと、特に中盤からは謎の一色ベタ塗り空間でのごちゃごちゃが続くせいで映像面がしょぼすぎて、アニメとして面白さを感じる部分はほとんどなく、最後に歴代エヴァにグサグサ槍が刺さるところとか首無し綾波集団とかはなかなかに厳しかった。とはいえ、よくこんなもの作ったなあとは思う。

で、古参ファンの諸先輩方の感想など確認できる範囲で巡回してみたが、やはり旧劇みたいに庵野に突き放されたかった派?の人たちはみんな怒っていて、そういう感想を読めたのもまた嬉しかったり。特に七里さんのものなどからは、久しぶりにはてな時代を思い出したりしてしまった。知ってる人以外のもので面白かったのは、破のゲンドウ鍋パ実現世界線について妄想してる人と、鈴原サクラ怪文書という一連の書き込み。おそらく他のキャラの行動原理や到達点があまりにも多義的な解釈を許さないトゥルーエンド的なものばかりだった反動なのか、唯一感情的になって銃をシンジに構えたりとわかりにくい行動をした彼女の心理を読むことに従来の深読みしたいファンたちの気持ちが吸い寄せられたということなんだろうか。謎本的な解釈の欲望の唯一のはけ口、と考えるとなかなか興味深かった。

例によって店が閉まるぞということで近くの立ち食い回転寿司。かなりのスピードで食べられることがわかったので時間ない時にはいいかも。

寝る前にかなり久しぶりにカップヘッドやったがもう全然クリアできず。難しすぎる。

 

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午前中、近所の公園。目当ての読書スペースは定休日だったのでベンチでしばらく本読んだが、日光は気持ちよかったものの案の定花粉で鼻が死亡したので早めに退散。

しばらく昔のKPOPアイドルの動画を見ていたらなぜか数時間が経過。夕方にかけてしばらく放っておいたヒース、アンドルー・ポター『反逆の神話』読み終える。印籠のようにヒース持ち出す逆張りの人もそれはそれできついが、ヒースより普通に〜ナオミ・クラインが好き〜な人は周囲に結構いるのでそれもきつい、というところから出発してどうするか。

意外と似てるのか、という連想から飛ばしてたジェイムソン『アメリカのユートピア』のジジェクと柄谷のやつを。何となく思ったこととしては、グローカルがアツいよね、といった左翼に対してダメ出ししている点では実はジジェクやジェイムソンもヒースと出発点は同じ、かつ特にジェイムソンが強調してジジェクも評価している点として「共産主義においても羨望と敵意がなくなるわけがない」という主張があるわけだが、羨望の位置を重視しているところも実はヒースと重なっていたりする(ジェイムソンとジジェクラカンに依拠する一方、精神分析ディスるヒースが頻繁に持ち出すのはヴェブレンの消費社会論と言う違いはあるが、実はそんなにそこの差は重要ではないような気もする)。まあ特にジジェクマトリックスとかゼイリブとかバートルビーが大好きで反逆的消費者ポーズ丸出しのところもあるのだが、どの程度確信犯でポーズでやってるかとか、どこにヤケクソで闘争するポイントを置いているか、とかは考える必要があるのかも。

一方でジェイムソンの国民皆兵制という提案は、考えるほどヤケクソの悪い冗談としては面白い気がしてきた(週末に聞いた福沢の「瘠我慢の説」を今あえて「失われた大義」として召喚する手つきもこの辺と近いヤケクソさを感じた)が、経済の領域と文化の領域、下部構造と上部構造の徹底的分断を措定して政治そのものの過程を消去する、というのがうまくいくわけないし、ジジェクのツッコミはわりと痛いところをついているような気もする。毎日四時間ぐらいみんな働いてあとは好きなことしようぜ、的な提案に対して「こうしたことは可能だろうか。卑猥な快楽は、義務としての規律された行動をつねに汚染しているため、そういう行動に快楽を覚えることにならないだろうか。また逆に、軍事的規律は快楽をすでに汚染しているため、快楽は課題としてなされる義務にならないだろうか」(323)。あと、ジェイムソンの数時間の拘束時間以外にクリエイティヴなことでも何でもしたら、みたいな結論は、ちょっとグレーバーの『ブルシット・ジョブ』の胡散臭さともつながっているところがあるような気がする。パッと思いつく範囲だと、もしジェイムソンやグレーバーがいうように自由な時間が増えたとしても、結局そこに羨望と敵意がめちゃくちゃ絡んでくるに違いないというところか。あんたらみたいにみんな本書けたり、アート活動に勤しんだりするわけではないよというか。

ヒースの方は逆に対左翼のディスり芸の面白さで下駄履かせて評価したくなってしまうが、反論じゃなくてストレートな主張として何言ってるか、で考えるとめちゃくちゃ微温的だったりするところがまあ問題という感じはする。あと著者たちに言ったら嘲笑されそうではあるが多少は的を射てそうなツッコミとしては、カウンターカルチャーに代表される消費文化というのは要するにほぼアメリカ文化のことで、カナダ人の著者二人による対アメリカの羨望混じりの競争意識から発した攻撃性が必要以上に過激な批判の仕方として文中に随所に現れてはいて、それはわりと精神分析的に解釈することもできるだろう(その意味で日本の若いヒース好きが京都の人とかなのも妙に納得してしまうところがある)。競争的消費が「底辺への競争」を生んでしまう流れあたりの議論はとても説得力あったのでヴェブレンはちゃんと読もう。あとどうでもいい細部ではセリーヌ・ディオンのダサさをカナダあるあるかつグローバルギャグとして通じると踏んで書いてそうなのが面白かった。グザヴィエ・ドランが読んだら怒りそう。

 

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午前中、現代思想2月号「精神医療の最前線」を。毎年イマーゴぽいこの特集だけは金払って買っている。東畑・斎藤対談の具体例に根ざした話は勉強になった。小泉義之中井久夫批判はあまり考えていない方向からだったがまあ著者の日本版「狂気の歴史」みたいな近年の仕事からすると納得の切り口か。他、村上靖彦ウィニコット使いや上尾論考の精神分析とコロナについての記述はそんなにはまっていなかった印象。貴戸「コロナ禍と家族」が徹底して具体的な問題に寄り添っていて良かった。また黒木論考のゴールドウォーター・ルールについては恥ずかしながら存在を知らなかったが、それがトランプの大統領選で再度注目される流れからは、著者は言及していなかったもののゴールドウォーター本でもあるParanoid Style本でのホフスタッターを想起。

午後は久々に大学へ。自習室の掃除、借りていた本の返却、生協で予約していた本の受け取りなど。なかなかの冊数をカゴと背中に背負って自転車で往復したら汗だくに。

大学図書館で人文系雑誌つまみ読み。村田沙耶香の自慰をめぐるエッセイはボカシ一切なしの直裁さでちょっとびっくりしたがまあらしいといえばらしい。よく作中に出てくる自慰描写が思った以上にメタファーとかアレゴリーとかではなく自分の感覚そのまんまだったというのはさすがに意外だったが。あと毎年読もう読もうと思いつつスルーしてきた「みすず」読書アンケート号をここ2年分。情動、エンパシー関連本などいくつかめぼしいものをメモ。専門外で面白かったものを気軽に紹介、みたいになった時のここ数年の医学書院「ケアを開く」シリーズの強さはすごい。自分でも入れるだろうペギ夫「やってくる」をはじめ、東畑「居るのはつらいよ」、伊藤 「どもる身体」などポップさとハードコアさのバランスが絶妙な本が次々に出ている印象。伊藤本はまだ積んでいるが、近年読んだものはだいたい新書よりは突っ込んだところまで書くけど専門外でも気軽に読める、という匙加減が見事。

深夜、カーペンター『ゴースト・ハンターズ』。チャイナタウンもの。あまりのバカバカしさに嬉しくなってしまう。ただ省略はめちゃくちゃ上手い。一切のストレスを感じずぐいぐい引きこまれた。たまたま見たタイミングが主演カート・ラッセルの誕生日とかぶっていたことに後で気づく。

 

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昼から中野。LABO麺二回目。今度は一番ベーシックなやつを。前回ほどの驚きはなかったがラーメンの範疇には入る味で、単純な好き嫌いでいえばこっちの方が好きかも。

歩いて東中野へ。道中なんとなく何年ぶりかわからんほど久々に聴いたBACK DROP BOMBの1stが良すぎて泣きかけた。道に迷って遅れそうになるもなんとか間に合ってポレポレで小森はるか特集。「米崎町りんご農家の記録」、「根をほぐす」はメディアテーク作品。前者ははじめて観た。「波の下、土の上」での花を植える人たちのエピソードとも連関するりんご以外を植えるエピソードなど良かった。もう一本、砂連尾理ダンス公演「猿とモルターレ」映像記録。おそらく濱口竜介「Dance with OJ」に映っていたリハーサル風景の本番と思われる公演。こちらには濱口さんは関わっていなかったようだが、東北記録映画三部作の酒井耕氏が小森さんとともに撮影で参加、瀬尾さんの「二重の街」が作品全体を貫くテクストとして用いられ、彼女自身も朗読で参加していた。地元高校生とのワークショップ要素やテクストを酷使するスタンスなど面白かった。ただ、自分にダンスのリテラシーがなさすぎることも関係しているとは思うが、一回見てすぐピンとくる感じでもなかった。あと、小森パートと思しき撮影が全部遠くからだったので彼女の被写体に寄っていく時のカメラの良さが他作品ほどは出ていなかったように思った。近くから撮ってたのは酒井さんと思われるが、少なくとも今回見たものでは高校生とともに輪に参加している場面のショットなどは肝心のところでそもそもあんまり採用されていなかったように見えた。別バージョンとかもあるのだろうか。

 

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夕方、ここのところ花粉で減らしてるが久々に5キロ。筋トレもいろいろ。珍しくたくさん身体動かした。

夜、ジョン・ヒューストン『白鯨』。まあバサッと切るところは切ってるがわりと素直なアダプテーション。深夜、スタローンvsウェスリー・スナイプスの『デモリションマン』。暴言吐くと罰金とか管理しすぎで殺人事件がなくて警察が弱体化しているとか、雑なようでなかなか的を射た風刺が効いていた。今だとスタローン演じる主人公の痛快さはポリコレ棒に屈しない自覚的老害の頑固オヤジ的な方向で読まれそうでもあるが、そんな風に真面目くさって考える気を挫くような筋肉要素とバカさ加減も合わせてわりと『ゼイリブ』的な雰囲気のある面白さ。ヒロインのサントラ・ブロックが異常に可愛いのもポイント高い。ヨシキ氏とかがコロナ映画として挙げてたのは、地下のレジスタンス集団と自粛中のこっそり飲み会とかのアナロジーだったのだろうか。ブログの破壊屋ってこの映画からきてるのか、というのはなんかオエッとなった。

ヴァレリームッシュー・テスト』。時期や発表方法によってばらつきはあるものの、思ったよりなかなか青臭くて好感持った。隠者志向の自意識過剰批評家が書いた小説という意味では森敦の『意味の変容』なんかを思い出しもした。

坂手「バートルビーズ」。思ったより原作まんま使ってたりするパートもありびっくり。

 

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朝自転車でTSUTAYA。オープン前になんとか返却。まだこんなことしてる人間はもうほとんどいないからむしろ貴重なのかも、とか考えつつ。風呂で汗流して昼歯医者。一応今回の治療サイクルは終了。超重い腰をあげて歯間ブラシ導入を決意。夕方にかけて怒涛の勢いでメールと事務書類を処理。ポストに色々投函。おまけに部屋の掃除もした。めちゃくちゃになっていた本をかなり整理したが、探している本は出てこなかった。

もろもろの作業中は引き続きBDBを出た順に。ミクスチャーというジャンルは完全に消滅したけど2010年代の全然聴いてなかったやつも変わらずかっこ良い。

 

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午前、シャマランの「サーヴァント」第2シーズンラスト2回を。バスギャロップがどの程度製作の中心になっているのかよくわからないところはあるが、シャマラン作品として見ると陰謀論ブームと自作の関係をかなり意識しているところは本当に面白かった。選挙前後からバイデンにかなり肩入れしていたのも含め、トランプ的なものにおける「信」の問題については応答する気満々だと思う。シーズン2までの段階でカルト批判としてベースはしっかりしている気はした。まあ集団vs個になってくると今度はアイン・ランド問題が出てくるので、そことの兼ね合いをどうするかが腕の見せ所だろう。

昼からアテネへ。席減らしのせいもあってまさかの一本目満席。空いた時間に近くでカレー食べたが、久々に店主の不愉快さが味の旨さを上回る案件に遭遇。もう行かない。

クルーゲ『定めなき女の日々』。まずは夫婦のすれ違いをユーモラスに描いた序盤がいい感じ。クソすぎるプレゼント交換、夫への対抗心で本借りまくるが読まない妻の描写など、悪意がひどい。ミソジニー貧乏クソ夫批判の女性映画なのか、と思わせつつ妻役(多分監督自身の妻)が違法の堕胎業を辞めたところから彼女が突如政治に目覚めるという明後日の方向へ話が展開。毎日堕胎してたはずの彼女が工場で数人の子供が死んでいる事件が大問題だから一面にしろと友達と新聞社に殴り込みをかける場面や、暇だからとブレヒトの歌を暗唱している場面などは、明らかに彼女たちの知性を侮っている感じありありで、ストレートなフェミニズムをうたった社会派映画などでは当然ないのだが、とはいえどぎつい悪意の中にも結局社会が個にどう影響を与えるか、という視線が常にあるところが独特。素直なリベラルが喜ぶような方向に一切持っていかずに社会の問題と対峙するというスタンスはやはりドイツ特有のなにかなのか、シュリンゲンジーフなどにもある程度通ずる部分があったような。

神田川沿いの常陸野ブルーイング・ラボでクラフトビールちょっと引っかける。川沿いのテラス席をかなり距離あけてたくさん設けていたのが、このご時世ならではな感じ。

川崎ロック座で人生初ストリップ。入ったタイミングがちょうどつむぎさんのラスト公演で、超満員立ち見の中、アイドルの引退ライブのように四方から紙吹雪が舞う祝祭的な空気に浸る。その後、フワちゃん、KPOP、バーレスクと日韓米をまたぐそれぞれのモチーフのダンスを見ながらなんとなく雰囲気に慣れてきたところで、最後にみおり舞「春の祭典」でロシアならぬ異界に引きずりこまれた。バレエの要素があるぐらいしか事前情報を調べずに行ったので、暗転後にステージ中央に翁が出現した瞬間にはさすがに度肝を抜かれた。烏帽子かぶって足袋履いてたから、ストリップなのにスタート時点ではそもそも手しか露出してないという...。特に円卓ステージで花束を自分に打ち付ける終盤の舞の鬼気迫る雰囲気には圧倒された。4公演×10日のラストと考えるとより恐ろしい。緊急事態宣言下の深夜に密かに小屋に集っている人たちのマナーは名画座よりよっぽどよくて、危惧していたような要素もなく、女性客も普通に何人もいて居心地の良い空間だった。一応昔の文化の名残という感じで短めの開脚コーナーなどは用意されていたが、ロマンポルノとかでみていた小屋の雰囲気とはかなり異なり、ダンスの方向性も含めてどっちかというと地下アイドルイベントとかに近いものになっているような気がした。次回は他の箱に行ってみたい。

 

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結構な雨。昼すぎBunkamuraへ。あいにくの天気の中ドゥマゴのシエスタ演奏を見てからドアノー展。写美のキス写真でおなじみの人だったが、他のものは何も見たことがなかったので予想以上に楽しめた。写真単体のクオリティ以上に夜のパリの様々な現場に金落としてちゃんと通っていたからこそすくい取れたであろう空気にぐっと来た。本人の発言にもあったが作品を作りたい、いい写真を撮りたいから遊びに行っていたわけではなく、立ち会った現場を撮りたい、という動機がベースというところが信用できる。

初台に移って ICCで最終日の千葉正也個展に滑り込む。ここ最近の展示では間違いなくベスト。めちゃくちゃよかった。飼っている亀が快適に過ごせることを中心に考えたと思しき展示構成にまずびっくり。立体ではない作品の多くを壁以外に設置することで裏が丸見えだったり片側からしか作品が見えなかったりするのも新鮮だったし、どうも一貫してこれまでもやっていたらしいチケットや展示案内を絵画の中に入れ込んでしまう手法も面白かった。何より途中から驚かされたのが、確実にはじめて見たなんなのかよくわからないオブジェや絵の中に現れるモチーフが、展示全体ですべて二回現れるという不気味すぎる構成。亀すら二匹いること、観客すら映像に撮影されて二箇所に現れていること、同様に警備員やスタッフについても本人をモデルにした絵がなぜかホットカーペットに描かれていることで、次第にこれはもしや展示空間を構成するすべてのものが二つ現れるのか、と疑い出し、最終的に全体の法則に気づいた時はぞっとするとともに笑ってしまった。貴花田貴乃花の手形がそれぞれ二つずつ出てくるのもそこは別換算なのか、という謎の感動があった。他人の顔になぜか微妙に角度をずらして自分の顔を描くという自画像シリーズも同じ関心からくるんだろうけど、気持ち悪すぎて最高だった。エイフェックスツインかよという。唯一ひとつしかなかった気持ち悪いカップルの絵は目の前に鏡が据え付けられており、おそらくそれで二つ分ということなんだろうけどそこにもハッとさせられた。あと、鉛筆で書いたモノクロの絵は別扱いという感じなのか、それらだけは小学生かアウトサイダーアーティストが描いたみたいな単調で平面的な絵柄で、どっちかというと技巧的な油彩との落差がでかすぎて妙に印象に残った。あれはなんだったんだろう。

近くの蘭蘭酒家へ。餃子、海老蒸し餃子、揚げピータン油淋鶏、土鍋麻婆豆腐、アサリチャーシュー入り黒チャーハン。ビールと紹興酒ハイボール。なかなか良い店。

夜ははじめてニコ動に課金して約5年ぶりの白石晃士「生でコワすぎ」を。今回はカメラ振るまでの座りトークがとにかく長く、それがおそらくは過去二回を見ているであろう熱心なファン向けのサスペンス性を生んでいたような。大迫さんの台詞量が半端じゃなかったが、冒頭でのニコ動視聴者への煽りから素晴らしかった。市川の「アップデート」発言に嚙みつくくだりはテレビや映画だと結構アウトすれすれのラインだったと思うが、その辺りも配信だから入れていく、というさじ加減なのかなと思う。分身工藤の大量出現、市川の兄が江野設定、無印の世界線を工藤が認識していることなどは新シリーズへの前フリなのかな。白石ユニヴァース版ミスターガラスとして、可能ならNEOとかもひっぱりだして巨大スケールの「コワすぎ」新作をなんとか完成させて欲しい。ついでの流れで前回の貞子vs伽倻子便乗企画の回も改めて観たが、今回のよりかなり大掛かりで金もかかっててサービス満点の内容だった。こんなことやってる人はさすがに世界で一人だろう。ウィリアム・キャッスルが生きてたら確実に嫉妬するレベル。

川崎にはじまり写真のパリ、ICC、そしてネットまで、昨日今日と生で「現場」に立ち会うことはやっぱ大事、と思わされるイベントが多かった。まあまだしばらくコロナでどうにもならないことは多そうだが、いける範囲でなんとか追いかけたい。

 

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もともと緊急事態期間用に再開した日記だったが、いつの間にか期間が終了していた。去年の一度目と比べると飲食店が閉まっていて不便なだけの無意味な時間だった。いまだに全然検査しない上に変異株色々入ってる中でワクチン接種も進まずで今後も実質的には緊急事態が常態化したような状態が続くんだろうけど、この状況でまだ本当にオリンピックやる気なのか。四月から大半が対面になる大学も感染状況次第でまたコロコロやり方変わったりするんだろう。

午前ヴェブレン読み。冷静にひどいこと言いすぎ。ファッションに関する記述の口の悪さは完全にヒースに受け継がれているような。

近所の桜がいよいよ花見客押し寄せるレベルで咲き始める。花見の自粛をお願いするプラカードを掲げた警備員がうじゃうじゃいて景観を損ねていた。

花粉対策に部屋の掃除がいいという話を聞き(当たり前)、昼過ぎ久々に掃除機使ってすみずみまで。午後は全く集中できずだらけてしまう。週に一回はこういう日がある。

夜なんとかメルヴィル「ベニト・セレノ(漂流船)」を読む。やはり当時の船も街路と同様見知らぬ他者と出会い得る期待と不安を煽る場所としての性質が強かったんだなと改めて。好意的に解釈すれば近年のジョーダン・ピール作品とかにまでつながる黒人へのステレオタイプ的な印象を逆手にとった人種ものホラー、ミステリの要素があり、たしかに当時の厳しい検閲を避けながら差別を批判する意図があったと読めなくもないんだろうけど、どこまでそういう意図で書いていたのかは怪しいような気も。というか、もう少し言い方を変えると、作者がベニートの最後の選択に奴隷制との関係を書き込んでいるのは間違いないとは思うのだが、かといって彼の謎を奴隷制との絡みだけに回収して読んでしまうのもどうなのか。むしろ90年代前後の研究史でそういう読みに脚光が当たったことをそろそろ歴史化するべきなのかもしれない。あるいはエマソンとの関連もあるのかもしれない船のジグザグの航路にも似た、中盤のデラーノ船長の安心と不安を交互に行き来する心理の揺れを描いた部分は、やはりポーの街路表象やハルトゥーネンとかの都市論、『信用詐欺師』あたりを想起するところ。結局は後半に絵解きされてしまうのが少しつまらないところだが、なかでもとりわけデラーノの不安を誘発する法廷編に入るまでのドン・ベニートの不穏さは、「私は行くことができません」(250)のリフレインも含めて、ややバートルビーめいた部分も感じさせる。翻ってバートルビーではウォール街という空間がどういう性質を担わされているか、をよく考えた方が良い気がしてきた。あとは白鯨やバートルビーにも通底するモチーフとしての墓や棺がやはり気になった。

セールで安くなっていたので深夜ユニクロUのセットアップなど買ってしまう。さすがにセットアップはユニクロではまずいのではという気もしなくはないが、普通に洗えるらしいのはでかい。

 

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朝まで寝られなかったので昼まで寝た。金曜朝早起きしないとなのを忘れていたが、それまでにリズムを戻せるのか。

ネグリ=ハート『帝国』2-1から2-3。デカルトからヘーゲルの流れを批判しつつ主にスピノザドゥルーズ=ガタリの系譜を対置。2-1のフーコーから2-2の国民国家論、2-3のポスコロまで、この辺りまではわりとベタなポモ議論という印象。こういう論の運びだとはあまり想定していなかった。

散歩中に聴いた先週分の伯山ラジオからの流れで夜TVerで伯山カレンラスト二回。花田優一回ぐらいしか見てなかったが、いい締め方だった。

 

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博論の講評受け取り。

 

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 学位授与式。百年ぶりにらすた食べて帰宅。日吉は大学どころか駅周辺まで一切タバコが吸えなくなっていた。