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819

夕方フォード『最敬礼』。海軍ものだが戦争での活躍ぶりを描くと見せかけて軍内部での後輩いびりからの陸軍とのアメフト対抗戦で終わるという映画版『ドカベン』並に驚く展開だった。兄弟喧嘩からのノーサイドというあたりで反戦要素があるとも言えるのか、とにかく変な設定である。いじめ場面で暗唱するところとかは面白くはあったが、特集の他の映画と比べるとやや落ちるか。アーンドラダイニングで鯛カレー、ビリヤニミールスをシェア。渋谷のインド系では明らかに一番旨い。また行く。

海浜幕張へ移動。いつぶりか不明のソニックマニアコーネリアスちょっと覗いてスパークス。やはりモロダー期が特に好きだと再確認したが、プライマルなど他のアーティストが軒並み何ら更新のない思い出商法全開のリストだっただけに、長年現役で変化し続けている彼らの貴重さが余計に染みた。プライマルは昔観たスクリーマデリカセットと多分ほぼ全く同じ、ハードフロアも90年代前半からワープしてきたような音だったが、後者についてはこっちもそれを聴きたかったので大満足。翌日サマソニ行くわけでもないのに宿を取っている友人がちらほらおり、これが大人の金の使い方というやつかと妙に感心。

 

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朝最寄駅で一番早くから開店していたのでたまにはと、いけすかないおしゃれ店でエッグベネディクト。雰囲気はやはり落ち着かなかったが店員さんがとても親切だったのでまた行くかも。自分の次に入ってきた高齢のご婦人がメニューすら見ずに朝飯とスパークリングワインを迷わず注文していてかなりかっこよかった。

また昼過ぎ起床。試写二本。夜は近所の立ち食い寿司屋にはじめて行った。なぜか自宅周辺でやたらとぶいぶい言わせている、各国料理を別店舗で展開しているというかなり怪しいチェーン店なのだが、イタリアンの店がまあ旨くないとは言わないもののとにかく味付けが濃い目で、塩たくさんぶっかけときゃええやろ的なパワー型の料理ばかりだったのでやや心配しつつも、まあ寿司だからそこは大丈夫っしょ、と油断して入店したところ、豪快に塩で味付けて醤油いりませんという方向のネタが大半で悪い意味で納得してしまった。

原稿やるはずがやや飲酒してしまったので無理になりストレンジャー・シングスs4最終回を。ギリギリまで引っ張っておいて最後に一気に全員集合に持っていくとばかり思っていたのでまさかのリモート展開にはびっくり。たしかに二桁の人数を一箇所に集めてそれぞれに見せ場作るのも厳しいとなると理にかなった選択に思えるし、zoom的なリアリティをうまく入れ込むという意味でも面白かった。しかもリモートをつなぐメディアがピザ屋の冷蔵庫使ったアイソレーションタンクという・・・。馬鹿馬鹿しいが、80sと現在時をつなぐというコンセプトからすると完璧な組み合わせ。今シーズン、新キャラも結構いてさすがに物語をまとめるのがなかなか難しいというなかでは十分健闘していたようには思うが、最後に一気に盛り上がるカタルシスのようなものはそこまでなかったようにも。ハイライトシーンはエディのメタリカ演奏場面か。前半オチのケイト・ブッシュより大分アガる感じはあった。s3のホッパーの例もあるのでエディは次のシーズンもゾンビっぽい設定で絶対に再登場すると思う。

全体通して次のシーズンの展開が気になるのは、やはりナンシーがどっちとくっつくんだ問題と、ウィルの気持ちどうしてくれんだ問題の二つか。スティーヴ好きだけど別にくっついてほしくはないという微妙なファン心理がある。前半では貸出履歴から人物像を割り出そうとするビデオ屋描写がちょうど最近「ビデオランド」読んだところだったのでなかなかグッときたのと、原点回帰のD&D描写が嬉しかった。信じるというキーワードはbelieve、trust両方入れたら今シーズンも相当数出てきていた。そこにカルトの問題を絡めていくあたりもどう展開するのか楽しみにしていたが、最後のエースの死に方だけは笑ったものの、バスケ部周りの演出はそこまで冴えていなかったような。全体を通してとにかく思ったのは、特にヤングチームがどんどん成長してしまって、さすがに物語の性質とうまく噛み合わなくなってきているという印象。最終決戦前のエディがダスティンに「お前だけは変わるなよ」と語りかけるところはシーズン屈指の名場面だったと思うが、同時に製作陣からの彼へのメッセージでもあるように感じた。

 

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起きて映画の予約をし、原稿を仕上げたあたりで発熱の傾向。夜までにぐんぐん熱が上がり、これはもしかするとあれですか、という雰囲気に。映画はキャンセルし、ひとまずここ数日会った人々に連絡。

熱でぼーっとするのでドラマぐらいしか観られず。白石『オカルトの森へようこそ』5話まで。白石ユニヴァース総集編という感じの作りで新味はないものの、入門編としてはいいのか。超コワすぎ劇場版あたり?から最近のニコ生配信まで、江野がコワすぎの世界線に現れるという越境は継続して起きていたわけだが、今回はさらにNeoまで出てきた。ちょうど去年『カルト』の劇場再上映行ったのも思い出しつつ観た。とはいえ、宇野を除いてはキャストは入れ替わっており、市川役とNeo役は別人、大迫は儀式で踊るカルトの男として出てきており、その辺りどういう位置付けにしているのかも最終回で一応の説明があるのだろうか。ここまでの印象では市川の自己決定や主体性をかなり前面に押し出すことで、ともすればパワハラ云々で今だと色々言われそうなコワすぎモデルに対して、近年のトレンドを押さえているところがまず目についた。そういった配慮もしつつ、怒られなさそうな範囲で宇野が筧を殴る場面を散発的に入れたり、2大カルト激突場面で互いに相手を陰謀論者扱いして馬鹿にして笑う様子を誇張して入れたりで、バランス取りつつ近年の状況を多方面で取り入れようとしている感が。パナウェーブ的な白装束の人たちとメイン悪役のカルトたちが互いに相手をディスり合うところは、本当に毎日twitterに流れてくる光景そのものだったのでさすがの上手さと悪意だなと感心。

 

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全く熱下がらず。マックス39.2ぐらい。夕方発熱外来で陽性発覚。ちーん。

サーヴァントs3ようやく最後まで。まあなんとも低調。早めに次のシーズンでの完結まで決まっててよかった。このシーズン終わりでの判定になってたら打ち切り可能性も十分にあっただろう。リアンがどんどん主体的になっていく展開はイシャナが最終回監督していることからも女性を押し出していくという一貫した狙いがあるはずだが、じゃあそれと全体のプロットが最後にどう関わってくるんだ、というあたりがまだまだ見えてこない感じ。さすがに家の中で4シーズンは無理だろ、となったのか多少外出るようになった、と言ってもほぼ近所の公園とそこに出てくるホームレスぐらいしか家の外で出てくる人物いない、というのは相変わらずめちゃくちゃ異常なドラマではあるのだが。

デュプラス兄弟『ハッピーニート』。主人公が『サイン』の大ファンで無職のおっさんと聞いてずっと気になっていたがようやく。Kevinの符号だけを頼りに動いていく弟の姿はいわゆるシャマラン的なサインを相対化して冷静な立場からやや皮肉っている面もありつつ、その後彼が自分の使命を見つけ出していくに至り、根底にどう考えてもシャマランへの愛とリスペクトに溢れていることが伝わってくる展開。ボンド買う程度というそのあまりにも微小な変化こそがかえってリアルで泣ける。母と兄のエピソードも絡んでくることで総合的にはサインよりマグノリアみたいなノリもあったが、最後に全てが収斂していく脚本も良い。バグったホン・サンスのようなバカズーム多用の撮影は彼らの十八番なのか、そんなにハマっている感じはしなかったがとにかくあまりにしつこいので終始気にはなった。

夜少し熱下がったのでシャワー浴びたのが良くなかったのか再び熱上昇。

 

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起床時はそんなでもなかったが午前は体温測るたびに熱が乱高下するわけわからん状態。ひたすら横になって唸るしかできず食欲もなし。ようやくお粥食べられて午後からは37度台で落ち着く。

 

 

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オンライン2コマ。オンデマンドなのでチェックのみ。

午後ユーロスペースキアロスタミ2本。

風が吹くまま』。多分以前一度観ているはずだがだいたい綺麗に忘れていた。今観直すと『ドライブ・マイ・カー』をどうしても想起してしまう。地元住民との心温まる交流をドキュメンタリータッチで描いているように見せて、実際にはその全ては老婆の死を待つ仕事の一環であるという、直接的に描かずに映画を撮ることそのものがはらむ暴力性を取り入れるスタンスも結構濱口作品と近いし、道端で拾った若者が助手席から現地の葬儀について批判的に語る場面なんかは運転席で話を聞く主人公と語り手を交互に真横から撮っており、『ドライブ・マイ・カー』の高槻独白場面はここを意識していたりもするのか、と。転がるリンゴを追うところや妊婦が翌日すり替わったのか子供が産まれている謎演出なども良かった。携帯に電話がかかるたびに丘まで車で移動する反復が可笑しいし良いリズムを産んでいると思うのだが、そこで顔が一度も現れない井戸掘りの男と何度か会話を交わす場面はいずれもとても印象的。その流れで男が生き埋めになるわけだが、そこで助けを求めていろんなとこ回りつつも撮影クルー探しているくだりが一番怖かった。なんなら死んだ時のこと考えてるのか?対象は違うけど葬儀チャンスじゃね?と捉えているようにも受け取れるあたり。

『ホームワーク』。宿題に関する子供たちへのインタビューをまとめたドキュメンタリー。冒頭と最後に軽く映る朝の体操でフセイン殺せとか子供に言わせてるのが怖かった。基本的に正面から子供の顔を捉えたショットと逆側からカメラマンを捉えたショットが連鎖させられる構成となっており、露骨に編集が加えられていること、フィクション性を強調するつくり。字の読めない両親が宿題を手伝えないこと、大半の家庭で体罰が行われていることが繰り返し語られるが、特にそれらを告発する意図がなさそうなところが不思議。体罰のせいか撮影にもびびって泣き出してしまう最後の子が詩を朗読するときだけ急にシャキッとするところがハイライトなんだろうが、それも無理矢理暗記させた教育の賜物かもしれないという疑念を残すようにあえて演出しているのか。

 

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午前1コマ。午後の大学は文化祭準備だかでなし。

昼はTOUKA CURRYで神戸SAVOYの出張カレー。欧風にしてはしっかりスパイスが効いた辛さでなかなか好み。地方のカレーが気軽に食べられるのは嬉しいものの、関税のつもりなのか実質値段が本家の1.5倍なのはさすがに高すぎでは。

ようやくコロナ状況落ち着いてきたのもあってびくびくせず喫茶店で長居。アーレント小泉義之

夕方今日もユーロ。キアロスタミ『トラベラー』。これは傑作。まず主役の面構えが最高。中身カラの写真機で子供たちのポートレートを撮っている場面を映画として撮影しているところが一番わかりやすく面白いけど、テヘラン移動後の展開も良い。締め方も見事だが、そもそも200でダフ屋からチケット買ってたら帰りのバス代が足りない計算なのもやや気になった。試合三時間前に客入りすぎでは、とかペルセポリス当時から強かったのか、などサッカーファン視点でも気になる点が色々。

 

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文化祭準備とやらで授業なしだったのでここぞとばかりに五所平2本。どちらも濃すぎ。

 

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朝から紅葉狩りでも、と思っていたのだが起きたの遅すぎて断念。

昼過ぎアテネへ。チャーリー・バワーズ四本。こんな人がこれまでずっと発掘されずにいたのかという驚き。

水道橋の庭園でも、と思ったがちょうど日没でこちらも断念。結局インドア週末からは抜け出せず・・・。馬喰町に移動してギャラリーaMで「約束の凝集」より高橋大輔RELAXIN'」展。結局「約束の凝集」は前回荒木氏回行けなかったので4/5でフィニッシュ。カラフルな紙粘土の作品が好み。今回も長谷川さんの文章良かった。絵画に起きる変化と生活の話。

小川町へ。コロナ前以来二、三年ぶりの神田まつや。並んでいたが今に限ってはそういうのも懐かしくてまあありかなと思ってしまう。やはり最高にうまい焼鳥、ニシンの棒煮、鰹のなめろう湯葉わさび、お通しの蕎麦味噌あたりをアテに今シーズン初の熱燗。最後はなめこ蕎麦と悩んだもののやはりシンプルにもりそば。同行者のきつねも少しもらったがめんつゆが思わずお礼言いそうになる滋味深さだった。そこから歩いて神田。これまた久々に友達数人が開催しているイベントへ軽く顔を出す。TelevisionとかNew Orderを久々にでかい音で聴いた。大勢で会うのもだいぶ久しぶりで楽しい時間であった。あとはBoss the MC言うところの「それよりもついにはお前が親か」案件がいくつか発生しており感慨深かった。

深夜ダメ押しでバワーズさらに二本観て寝た。Wild Oysters、可愛かったはずの牡蠣が汚いおっさん集団⇨戦隊ものの敵キャラみたいなバケモンと化していて笑った。

 

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朝はもらい物の味噌で味噌焼きおにぎり、味噌汁、玉子焼き、にんじんのラペ的なもの。もらった黒味噌なかなか美味かった。

和食を食べた流れで?昼から国立映画アーカイブで五所平二本。

帰りの電車でバトラー『アセンブリ』読み終えた。

帰り近所のフレンチLes deuxで両親の結婚記念日飯。家族で外食したのもほぼ二年ぶりか。シェフは変わっていなかったがいつの間にか内装と店名が変わっていた。牡蠣や鹿など美味かったが量の多さがなかなかのレベルでその後やや胃もたれに苦しむ。

帰宅後、トッド・ヘインズのデビュー短篇The Suicide(1978)。17歳の時に撮ってるのは流石にびびる。真っ白な部屋の便器に腰掛けて腹をかっさばく主人公の男の子。周囲の白と血の赤の対比。母親を中心にした家族と過ごす日常の白黒パート、外で同年代の子供たちにいじめられたり笑われたりじろじろ見られたりを少年の視点ショットで表現するややドキュメンタリー的なタッチのカラーパートなどが矢継ぎ早に編集され繋げられる。他の子供たちからの視線が痛い場面では、後の『わたしはロランス』あたりへの系譜も想起させるmale gazeの変形版への関心もこの時点ではっきりと見出せるし、すでに初期作の手法がわりと出揃っているようにも。

あとSix by Sondheim(2013)のヘインズ監督パートも。ブルーノートみたいな場所でパルプのジャーヴィス・コッカーがステージでSondheimの曲を歌う中、時代ものメロドラマ作品っぽい衣装と照明で紳士淑女何人かが演奏を観ている様子が時折挟まれる構成。まあ大したもんではないが一貫した要素はあるか。

明日の授業準備して朝方寝た。レーガン演説の日本語字幕あり版がどうしても見つからず結局オバマの就任演説をゆっくり扱う方針に土壇場で変更。

 

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昼までベッドから出られずも、なんとかオンライン2コマチェック。

Adrian Tomineの初長篇 Shortcomings(2007)を読み終える。自伝的な要素を露骨に入れながら、おそらく過去作でも一番ではというほどにはっきりと人種のテーマを全面的に扱っている。とはいえそこはトミネなので当然一筋縄ではいかず、単にポリコレ路線というわけでは全くなく、むしろ異人種への性的幻想をメインの人物たちの痴話喧嘩と絶妙に絡める構成をとることで、かなり際どいラインを果敢に攻めている感じ。あるいは2021年基準だとやや燃える部類に入る可能性もあるので、そのあたりそろそろ実現するらしい映画化では細かいアップデートがちょこちょこ行われる可能性はありそう。トミネがモデルの主人公とレズビアンの親友が出会った時のエピソードが特に印象的。基本的に気まずさや行き詰まりを描くことが中心のコミックではあるが、フラッグを指して君はゲイなの?って聞いてしまうところから始まる二人の友情の描き方は、偏見があったら即ゲームオーバーという印象があまりに強い近年の傾向とはまた異なる形で、異質な二人が最初の失敗がむしろいいきっかけとなって関係を育んでいく様子をリアルに表現しているようにも思える。各コマに書き込まれた情報の密度は異常とも言えるKilling and Dyingと比べるとそこまで激しくはなかった印象。彼女がNYで付き合っていたユダヤ系とネイティヴアメリカンのハーフの坊主男の部屋にイサムノグチの電灯があったあたりはKilling~の一本目の短編同様のさりげないノグチ引用であり、まあ日系人繋がりで親近感があるのかもしれないが面白いな、と。

その後明日の準備でSula該当箇所まで読み、日が落ちる前にいつぶりか不明なほど久々にランニング。といっても体力落ちすぎでほぼ普通の散歩になってしまった。そのあと腹筋背筋プランクも同じく久々に再開。分数は少し抑え気味にした。筋トレ後は新たに買ったグルタミン酸をはじめて飲んでみた。プロテイン以上に味しないがまあ飲めはするか。

夜はトッド・ヘインズ祭り。昨日からほぼ制作年順に観ていくことに。

Superstar - The Karen Carpenter Story (1988)。よくできた人形メロドラマにして偽ドキュメンタリーというとんでもない問題作。20代でこれを撮るというのはどういうことなのか。ダサいものの価値転換という意味ではまさに同時代のクィアなパフォーマンス群とも共振する内容。とにかく観終わった瞬間からカーペンターズを聴きたくなる訴求力がすごい。リサーチを重ねたという摂食障害や実際にカレンが飲んでいた薬などに関するドキュメンタリー的なパートが実に効いている。インタビュー、ニュースのフッテージなどの使い方も含め、その後の作品にみられる要素がすでに出揃っている感も。

Sonic Youth "Disappearer" MV (1990)。タクシーで?モーテルへと向かうカップルなどと演奏映像のオーバーラップ。時々ドラァグぽい人も路上に映り込んだり。ストーリーと言えるほどのものはなし。

Poison(1991)。ヒーロー/ホラー/ホモとそれぞれ名付けられた三つの短編がぶつ切りにされながら並行して語られていく実験的な構造。それぞれをバラバラに語らないならもう少し相互の短編に響き合う部分があった方が良かったのではという感じはした。「ヒーロー」は父殺しをした幼い息子をめぐるフェイクドキュメンタリー調。「ホラー」は化学者もの。学者が自らの開発した新薬を誤って飲んだことで感染症にかかる話。最新作然りだがコロナ禍で見るとまた違った見え方になる部分もあるな、と。これまたヘインズ自身の記憶とも結びついているのだろうが、顔に出来物が増えて以降の、周囲から主人公に浴びせられる視線を彼の視点ショットから執拗に入れ込んでくるあたり、安易な逃げ道を用意してくれない厳しさを感じた。「ホモ」はジャン・ジュネの原作を参照した監獄もの。直接的に同性愛場面をどんどん描くあたりが眼目かと思うが、多作とのつながりという点ではやや浮いた小品か。

Dottie Gets Spanked(1993)。主人公の男の子がのめり込んでいくスパンキングはやはりなんらかの形で本人が固着している要素なんだろう。家族そっちのけで夢中になったTV番組のドラァグ的な主役女性が放送中にスパンキングされる箇所の撮影見学に行きぶっ飛んでその光景を絵にするが覗いてきた父親にバレてめちゃ怒られたりチャンネル変えられそうになり、関連してスパンキング関連の悪夢とかも見る。最後は尻叩きの絵を折ってアルミに包んで近所の土に埋める。

夜中、これまたいつぶりだという久々さで日記を。ようやく薄ぼんやりとした不安期が終わってきた感もあるので、ここのところほとんど手がつけられなかったいくつかの活動をなんとか日課にしていきたいところ。

 

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対面で2校3コマ。普段なら疲れ果てて夜は使いものにならないのだが、やること多すぎで仕方なく帰宅後映画2本。食事しつつ試写一本。その後サッカーまでにもう一本。

ヘインズ『SAFE』(95)。2000年代以降のメロドラマもの見直してみないとなんとも言えないが、もしかしたらこれが彼の最高傑作なのではという充実ぶり。中盤までは豪華な邸宅に暮らしつつ孤独を深めていくジュリアン・ムーアを見事なカメラワークで捉えた展開が続く。なかでも自宅内のショットはいずれも素晴らしい。はじめてサーク的な要素を全面展開した作品とも言えそう。ただそれ以上にすごいのが突如雰囲気が一変し排ガスなど化学物質へのパラノイアに彼女がはまりこんでいく展開。移住以降の展開の気味の悪さは特筆もの。過去二作同様エイズをめぐる曖昧模糊とした不安が裏に張り付いていることもあってか、並々ならぬ切迫度。プロデュースしたライカートの『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』(2013)や同作で共同脚本家いたレイモンドのRain Dragon(2012)への系譜もありそう。実際のニュースのフッテージ映像などとカルト団体の宣伝映像を交えた偽ドキュメンタリー的な形式が、結局は彼女の不安を解消する何かが見つかるわけではないという結末と完璧に呼応している。最後の場面でカメラを向くムーアの表情の曖昧さは、おそらくは同作を意識したと思しき最新作のラストカットにはないもの。

オマーン戦。前半はあまりに酷すぎてぶったまげたが三苫のおかげでなんとか首の皮一枚で繋がった感じ。

 

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一コマ。

ヘインズ『ダーク・ウォーターズ』。

夕方『ベルベット・ゴールドマイン』。

夜は集中切れて全然ダメだった。

 

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ヘインズ『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド』。ルーとジョンの生い立ちから各メンバーの加入、解散までを時系列で辿り、最後にその後のそれぞれのソロ活動についてもばーっとまとめて振り返るスタンダードな構成。まず目についたのは、ゴダール映画史かというレベルで当時のNY周りの重要な映像がなんの注釈も無しに大量に差し挟まれるところ。ちょうど最近見たバーバラ・ルービンやジャック・スミスの作品からのフッテージもさりげなく使われていたが、いずれもスプリットスクリーンだったりメンバーの語りと同時に流れてたりでまあ知らん人が見てもなんだかわからん使われ方をしていたし、おそらくは他にも私がわかっていない似たような例が大量にあるのだろう。2ndまでの圧倒的な出来とその後の落差があるのはまあ誰もがわかっているところなんだろうけど、そういう中でも3rdでドラムのモーリン・タッカーが「アフター・アワーズ」のボーカルを取ったことについてルーが回想して「最初は自分がラメ入りのスーツ着て歌うつもりだったけど、まだ聴く側に受け入れる準備ができていないと思ってモーリンに任せた」、というようなことを語っていたのを抜いてくるあたりはさすがだと思った。もう一つ印象的だったのは高校生の頃にヴェルヴェッツのライブに数十回通い詰めて前座もやったというジョナサン・リッチマンの述懐。テクニック的な部分の解説としても面白いし、同時に『ベルベッド・ゴールドマイン』でクリスチャン・ベールが演じていた元大ファンの記者、つまりはある程度ヘインズ自身が重ねられた立ち位置を思わせる部分もあった。「スーパースター」から一貫して言えることだが、観終わった後ヴェルベッツの曲をめちゃくちゃ聴きたくなるだけでも作品としては大成功ということだろう。とはいえ、初期の偽ドキュメンタリー志向との関係を考えたときに、監督がというよりは世の中の流れのように思うが、ダーク・ウォーターズ同様に虚構としての強度にあまり関心が向っていないように見えたところは少々気にはなった。

授業準備終わってから文化祭期間で授業ないことに気付く。外に映画観に行きたい気分ではあったがそれどころではないので仕方なく家でWEB試写。『スティール・レイン』、意外な掘り出し物だった。

 

 

 

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朝試写で『カラミティ』。昼、天義。具沢山でそこまで割高ではないがご飯やや少なめ。あとワンオペ店主がフェイスガードで味以前になかなか厳しいものが。

ヴェーラで二本。ハリー・ホーナー『優しき殺人者』。ロバート・ライアンの怖すぎるサイコ野郎演技が最高。かなり低予算だと思うのだが設定の面白さワンアイディアでよくここまで面白くできるなと。すっきりと二重人格者として描写されているわけでもないあたりがまた絶妙で、途中からは今は話通じるモードなのか、記憶はぶっ飛んでるのか、とただライアンが歩いてくるだけで謎のサスペンスが醸し出される。自分でシャツの内ポケットに入れた鍵のこと忘れてるあたりの演出が特にすごい。ジョセフ・ロージー『M』。ラング版忘れてるところもあるが途中まではわりと素直な翻案だったような。ただだんだんわけわからん展開になっていき、ギャング側の弁護士の方が頭おかしいのではという気さえする衝撃的な締め方。縦長のビルがらみの撮影、そこで犯人が隠れてた小部屋のマネキンを陰影バキバキで撮った場面、坂の撮影あたりも良かった。

 

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朝食後に上野へ。駆け込みで都美術館のイサム・ノグチ展。金属を使った彫刻もいくつかいいのあったが、全体としては岩から切り出しているものの方が好みだった。最後のフロアだけ撮影禁止にしていたのも良かった。香川とNYの庭園美術館は行けていないのでそのうち行かねば。

歩いて御徒町方面へ。昼は厳選洋食さくらい。はじめてだったのでハンバーグ食べたかったが時間足りずでオムライスセット。オムライスは正直特筆すべきものではなかったが、もう一回は行く。

こちらもはじめての上野TOHO。入口わかりにくい。ジェームズ・ガン『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』。前二作があまりにもひどかったのもあり、気の利いた演出やしっかり笑える小ネタの数々にさすがは信頼と安心のジェームズ・ガンという感じでいちいち頷いてしまった。複数ジャンル映画を次々横断していくB級根性炸裂しすぎのサービス精神過多な盛り方も、余裕のなさは感じたもののまあ楽しめた。序盤の使い捨てメンバーを使ったゲスすぎる導入からまず素晴らしかった一方、キャンセル問題を経て不謹慎のアップデートを図ろうとする姿勢も随所に。ジョン・シナの扱いから動物系キャラたちやモブキャラ、悪役の雑魚キャラたちに至るまで、どういうタイミング、どういう相手ならキツめにいじったり血まみれにして殺してもOKか、そのあたりの線引きを相当慎重に考慮しつつ組み立てているのは明らかで、かえって最適解を追いすぎている印象に対して物足りなさを感じる向きもあるかもしれないとは思った。あとはYさんも言ってたがハーレイクイン周りの演出はあんま得意ではないゆえに無難になっていたところはあるか。最後にかけてのはみ出し者を力強く肯定する展開にはわかっていても涙が。

ショーン・レヴィ『フリー・ガイ』。ほぼトゥルーマン・ショーじゃんと思ってあまり食指動いていなかったが評判良さそうなので観てみたら個人的なツボど真ん中で泣きまくりだった。実際のところはトゥルーマン〜ゼイリヴ〜わたしは真吾と流れていくような展開で、設定や物語そのものはベタで手垢にまみれたものでサンプリングありきなところはあるもののなるほどこう繋げるのかという。あからさまなサングラスにとどまらない黒人バディとのやりとりも含めたゼイリヴへの確かなリスペクト、「やってくる」案件とも言えるAI≒モブキャラの成長をめぐる設定の妙、バトル場面でのどこかサウスパーク「Imagination land」を思わせもするめちゃくちゃな大ネタ連発ぶり、細田守が見習うべきゲーム実況と世界同時配信をめぐる同時代的な細部の描写などいずれも素晴らしい。あとストレンジャーシングスのファンとしてはスティーヴのトゥルーエンドぶりにもグッとくるものが。Twitterで見かけた感想で膝打ったのは屈伸煽りについてのもの。なるほどあれそうだったのか、と。その辺のゲームのプレイヤー視点の小ネタまできちっとおさえているという抜け目なさ。

移動中に読んだマラブーのラヴェッソン『習慣論』論がめちゃくちゃ面白かった。

 

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午前、バトラーBTM4章「ジェンダーは燃えている」。Paris is Burningについて、ベル・フックスによる批判も踏まえてイェール出の白人ユダヤレズビアンである監督ジェニー・リヴィングストンの立ち位置とカメラの権力性について指摘しつつも、単に白人的ファルス的な視点のみに終始するわけではないと再度ひっくり返す結論部が良い。類縁関係kinship?の文化的再編成によって創造される共同体のための言説的、社会的空間は評価できるという視点には納得。

そのときこの意味で、『パリは燃えている』が記録しているのは、有効な反乱でもなく痛みに満ちた再服従でもなく、その両者の不安定な共存である。この映画が証言するのは、反転的占有を予め排除することによって——その子たちはそれでもなおその反転的占有を遂行=上演する——その権力を行使する規範そのものをエロス化し模倣する、痛みに満ちた快楽である。 (183)そのときこの意味で、『パリは燃えている』が記録しているのは、有効な反乱でもなく痛みに満ちた再服従でもなく、その両者の不安定な共存である。この映画が証言するのは、反転的占有を予め排除することによって——その子たちはそれでもなおその反転的占有を遂行=上演する——その権力を行使する規範そのものをエロス化し模倣する、痛みに満ちた快楽である。 (183)

 

昼食後自転車で大学。本返して生協で新刊何冊か買う。

堀内正規『生きづらいこの世界で、アメリカ文学を読もう』。ルー・リード「パーフェクト・デイ」やホイットマン「カラマス」の繊細さをクィア的な側面をあえて強調せずに味読するあたりが真骨頂という感じで特に良かった。ディランのやつもはじめて読んだがらしさ全開であった。あとは死ぬ間際のブコウスキーの詩を論じたものを含め、マッチョ男性が時折のぞかせる脆さには一貫して関心があるのだなあと。とにかく定石や流行の読み筋にとらわれすぎずに自力でテクストとがっぶり四つで組んだ上で微細なポイントをすくいあげようとする姿勢に感服。自分もいずれはガチガチに先行研究で固めて武装した議論だけではなく精読ベースでエッセイ色の強いものも書いていきたいが、こういう議論はどういう立場の人がすれば許されるかをめぐるパフォーマティヴな問題が色々あるのも確かなので、まあもうちょい先か。

ネット上で公開されていた松本卓也訳でラカン「ファルスの意味作用」、同論考へのバトラーの批判を吟味したマラブーのバトラー論を。前者は訳注の充実ぶりがすごかった。フロイトのエディプスモデルがパパ、ママ、ボクなのに対して女の子バージョンは、という出発点から女性にとってのファルスの意味作用を考える。これも松本訳があるようだがリヴィエールの'Womanliness as a Masquerade'をベースに仮装や仮面のモチーフで女性性を解釈し、そこから浮気性の男や<他者>の欲望のシニフィアンとして自らを位置付ける女の特徴と絡めて両性それぞれのファルスへの欲望のあり方を分析する中で、男女それぞれの同性愛の解釈にも多少は踏み込んでいく。一方でマラブーは、同論考へのバトラーの批判から論を立ち上げる。

大豆田7話。かなり強引ではあるけど親友の死とオダギリジョーの登場で一気に転調する展開面白い。抽象的でわかりにくい語り方ではあったが、過去、現在、未来の瞬間をそれぞれ肯定するオダギリの議論は親友に加えて元夫たちにも適用されそうな感じも。

夜は頭働かず全然ダメだった。残りの採点は今週やるはずだったのだが・・・。

 

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『99%のためのフェミニズム宣言』。ケアマニフェスト同様にマニフェストということもあり、特にあとがきを除いてはかなり読みやすさに配慮した書き方になっていた。右派ポピュリズムに対置されるリーン・イン・フェミミズムやリベラルフェミニズム、それらの前提にあるネオリベラリズムに対する容赦ない批判が肝で、そのあたりの構図はそのままケア〜にも引き継がれているだろう。マルクス主義や政治哲学が専門の三人による共著だが、反緊縮はともかく、反資本主義といった時にスト・デモやって革命じゃ!でどこまで訴求力があるのかはやはりもやもやするところではあった。が、上からの政策レベルで実装可能な議論なんかしててもラチがあかなくなれば実際に各地で反乱が起きているとは言えるのかもしれず、そのあたりはむしろ自分の認識を改めるべきな気もしてきた。最近全く追えていないリフレ派周辺の議論も結局どうなったのかわからんのでそっちも読んでバランス取りたいところ。あと、ベテランこどおじとしては養育後に介護してくれなくてキレた母が息子を訴えた件についての記述がとにかく身につまされた。

大豆田8話。約束はどの時点で「重い荷物」、呪いに変わるのか。一方的な話ではなく相手への鋭い指摘が松、オダギリそれぞれに跳ね返ってくるブーメランとなっている。死者への喪だけではなく生きている恩人との関係、元夫たちとの関係性にまで共通する要素として提示してくるあたりが上手い。夫2、3の存在感が薄くなる一方でかごめつながりで微妙に変化する松田龍平との距離感も気になる。

ずっと家にいたらくさくさしてきたので日が落ちてちょっと気温落ち着いてから近所走った。それでも暑すぎてほぼ散歩に。道中でアトロクのピンチョン回。自分が俗説を引いたシンプソンズになぜ出たのか問題は濁されていたが、もしや公式には謎ということになっているのか。

大豆田9話。母からの一人でも生きていけるか誰かに頼るか?(細かいとこ違うかも)に対するある種の返答として自分で決めることを重視した結果オダギリが退場し、よく考えたら実質初の松田龍平回。夫婦続けてる仮想世界の描写がなかなか長くて驚く。店で松田が聞く謎の物音は、死者かごめの気配?

夜はやらなければならないことに取りかかろうと必死になっているうちに終わった。

 

828

朝、準備。昼、面接。疲れた。家から出ず読書会の課題書をなんとか少しでも進めようとしたものの全然進まなかったが、そもそも会自体が延期になり事なきを得た。

メディウム』1号の梅田拓也による緒言と論考の前半。キットラーの議論全体における『書き込みシステム』の位置付けをざっと確認。ゲーテニーチェにそれぞれ代表される1800・1900に挟まれる19世紀、というところで考えるとちょうど真ん中あたりでゲーテから影響受けニーチェに影響を与えているエマソンを挟むといろいろ言えそうな感じもある。あんまりそういう期待で読もうとしていたわけではないのだが、研究にも色々使えるかもしれない。キットラー『書き込みシステム』から「学者悲劇」。そりゃ査読でもめるわ笑、という痛烈な大学人、学者批判からスタート。このへんも「アメリカの学者」とかSelf Relianceの「本の虫」批判に通底する視点か(そもそもゲーテ由来だった気もするが)。ファウストゲーテにおける官僚、官吏、役人文体というトピックが特に面白。それがドイツ国民文学へつながっていくあたりは、最近の論理国語をめぐる炎上などを思い出したり。署名、固有名、個の名詞に意味があった時代?としてのシステム1800。あとは適当だがアダプテーションとかパロディの議論も1900への移行と絡めて考えたら面白いかも。ハッチオンもそれぐらい考えてそうだが。

大豆田10話最終回。大豆田の母や父との関係に最後で帰ってくる。血縁や家族に頼らない共同性とか親密さのあり方を探っているように見えたここまでの展開からすると、存在感が薄かった父や母との和解を経て、娘とも仲直りして血縁家族の体面が保たれる展開はやや後退とも取れるような気もする一方で、明らかにかごめと重ね合わされている母の元恋人である女性との対面場面は悪くなかった。シスターフッドとかLGBTとか流行りの要素を入れ込んでいるだけである可能性はもちろんある(花束〜やANONEとかにもあったマーケティング要素としての社会情勢ネタ)とはいえ、結局は母と彼女の関係も大豆田が様々な人物たちと育んできた関係同様に、どこかで解消されてしまった側面はありつつも、当人たちの間でなかったことにされたわけでもない。長く苦しい「喪の作業」を通じて「重い荷物」を降ろす部分ではなく、死や別れを経た全ての親密な関係を可能世界的に同時に祝福することで荷物を軽くするといった方向が目指されているようにも。そう考えるとそちらはうまくいっているとは思えなかったが、「花束〜」のラストとも呼応するのかもしれない。そもそも中年以降の女性が主人公で不倫とかに頼らずにいろいろな親密性を丁寧に描きつつさっぱりした印象に落とし込んでいるだけでも、カルテット同様すごいドラマではあった。手を替え品を替えいろいろなアプローチで定型を崩そうとしていく作劇は、ある程度尺のあるドラマの方がやはり向いているとは思った。特にかごめが死ぬ6回目以降の毎回予想外方向に転がっていく感じはドラマの醍醐味だなーと。毎週時間を空けて見たらまた印象が違ったかも。なんやかんやでずっと追求しているのは60年代ヒッピー、コミューン的な価値観のアップデートなのでは、という気もするけど次回作も見ようと思う。

深夜寝付けず『メタモルフォーゼの縁側』まとめ読み。良すぎ。

 

829

昼過ぎから三鷹へ。降りたのはじめてかも。三鷹市美術ギャラリー諸星大二郎展。原画中心、なかなかの充実ぶり。2000年代以降の作品を全然追えていなかったことがわかったのでコメディぽいのとかも含め改めて読みたい。

近くの中華そばみたかへ。空腹からトッピング全盛りの五目チャーシューワンタン麺を注文したが、あまりにうまくてびっくり。渋谷喜楽とかも含めたこのあたりの系統の醤油ラーメンで一番好みかもしれない。次回また行くための口実にジブリ美術館行こうかという程度には衝撃。

新宿に流れ、どうせ一週目だけだろうTOHOシネマ新宿の最大スクリーンでシャマラン最新作『オールド』を。

帰ったらカニエの新譜まで出ており流石にキャパ越え。とりあえず一周聴いたが困惑・・・。寝る前にリーペリーが亡くなったとのニュース。最後に観たのは2016年のフジロックだったか。

 

830

午前試写。昼は居酒屋ランチ。味は悪くなかったものの入ってみたら店員も客もノーマスクのヤカラみたいなやつばっかりで疲弊。こういうことに神経を使う日々はいつまで続くのか。

買い物して帰ってもう一本試写観て夜は自炊。ずっとリーペリー近作流しつつ食前酒にレッドビール、ジャガイモの花椒炒め食べつつ他作って、真鯛のバジルソース煮焼き、クラムチャウダーで白ワイン。食後もう一本観て寝た。

 

831

珍しく朝からちゃんと食べたのと午後からしばらく雨続きとの予報を見て、さらに珍しく午前中から走って長風呂。昼食前にちょっとだけ仮眠、と思ったらうっかり2時間寝てしまう。多分入浴剤のせい。

今日採点をやりまくる予定が、昼寝のせいでリズムがおかしくなり全く集中できないまま終了。星取りの原稿だけなんとかだいたい書いた。

5

522

土曜だというのに夕方までひたすら授業準備。前期の残りで使うTed演習のオンデマンド資料をまとめて作る。TED全体でもかなり有名なチママンダ・アディーチェの二本、それほどパンチラインがあるわけではないが分かりやすいアクチュアリティはあるので多少は響くと良いが。あとはヒルビリー・エレジー回なども新しく加えた。

夜はウーウェン自炊。牛肉の唐辛子炒め。醤油入れ忘れ、牛肉炒めすぎでややパサパサに。あと蕪とレタスのなんか。

そろそろ観ないとどうにもならんミニシアターエイドから『お嬢さん』。ブス/美人の対立で押す脚本がどうにも耐え難かったのと、全員ENBUなのかわからないが素人っぽさが残りすぎているように見えた各俳優の演技が自分には全くはまらなかった。美人は美人で抱えている闇をポリコレを気にしすぎず描く、といった路線なんだろうというのはわからなくはないのだが、監督が演技がうまくないと判断したであろうメンバーの雑な扱いなども含めて色々と必要な配慮が足りていないところがあるようにも。四宮氏の撮影はわりと好きな方だと思うのだが、本作での手ブレ、長回しの多用についてはあまり奏功しているとは感じなかった。

デヴィッド・バーンがルアカ・バップというレーベルから出していたらしい、アフリカのサイケ音楽ばかりを集めたコンピレーションの3枚目をたまたま飲みながら聴いたらかなり好みだったのでApple musicで探したところ、コンピ全5枚がちゃんと入っていてびっくり。1枚ずつ聴き込みたい。

 

523

ラピュタ昼の回がまさかの売り切れだったので、南阿佐ヶ谷PRABHATでノンベジミールス、高いけどうまい。店主の思想がやや気掛かりではあったがまた行くと思う。

ラピュタで『暴る!』。序盤に出てくるセクハラ刑事二人を除きすべての男性登場人物がレイプ魔という信じがたい設定が見事に活きていてめちゃくちゃ面白かった。社会人レイプ魔を追ってきたマッドマックス三兄弟みたいな男たちのレイプ相手がそっちなのかとか、終盤の激突やヒッチャーのような怖すぎるカーチェイス、決めまくりのラストシーンからのエンドロールへの流れ、謎にかっこいい劇伴のジャズなどあらゆる要素が最高。シンチェリータでピスタチオとストラッチャテッラ。同行者の紅茶のやつが一番うまかった。駅近の古本屋が妙に安かったので色々買ってしまう。

夜、豆腐と蕪の梅煮、冷たい和え麺、みょうがと蕪の葉和え。『暴る!』が良すぎたので流れで同じく桂千穂脚本の『(秘)ハネムーン 暴行列車』をアマプラで。冒頭の強盗未遂と結婚式からの男×2+ドレス女の脱走という意味不明すぎる展開だけでお腹いっぱい。駄菓子屋での即席ストリップ、またもひどい目にあいまくる八城夏子、なぜか『暴る!』同様にピンクレディーがかかる中ナポリタンを食う女の描写など、見どころだらけ。ピンクレディーかける時は毎回歌詞と展開をリンクさせようとしてくる謎の悪ふざけにも笑ってしまう。二本とも尺含めてめちゃくちゃB級アメリカ映画なのも良かった。

 

524

午前オンライン2コマ。オンデマンドなので今年度は予約投稿をなんとか使いこなそうとしているんだが毎週なんかしらの資料公開をミスっている気が。毎週当日に確認して焦る展開に。操作性が良くないのもあるが、さすがにそそっかしすぎ。

銀行と大学の生協、図書館に寄りたかったのだがオープン時間と天気の兼ね合いで自転車で行くには微妙な感じに。例によってアメッシュとにらめっこするも結局は断念。その分他の仕事を進めればよかったのだがうまくいかず。

『はこにわ虫』。予想以上に、びっくりするぐらいガロ。いましろたかし『未来人サイジョー』。正直言って『原発幻魔大戦』についてはずっと読むのがしんどくて、もう新刊買うのやめようかとも何度か思ったが、昭和へのタイムスリップというベタな大ネタを一つかませるだけでここまで完全復活するとはびっくり。政治をめぐる状況がひどすぎて怒る気力すら失せてしまったのかもしれないが、こちらとしては大歓迎。今回ぐらいのバランスのものであればずっと読み続けたい。そんなうまい話が、と思ったところですっと我に帰る展開もいい塩梅だし、半自伝的なところもうまく作用していたような。

Puar "Bodies with New Organs"(2015)、高度に理論的かつアクチュアルな状況への応答の要素もありなかなか面白い論文ではあったが、さすがに学部2年生に予備知識なしで読ませてよい代物ではなかった。

 

525

オンラインで3コマ。昼食後磁気不良のカード交換のため銀行行った以外は外出せず。数分止めている間に嫌がらせをされたのか自転車の前輪がパンク。

ケリー・ライカートCertain Womenの傑作百合エピソードの原作前半。主人公のポリオなどの障害設定と兄への劣等感と対女性のぎこちなさの結びつきを指摘する声多し。この時点では彼に同情的かつベスのおざなりな接し方に批判的な意見が多かった。後半どうなるか楽しみ。

諸事情により障害学の論文を立てつづけに読んでいる演習は、さすがに論文が難しすぎて発表の学生さんたちに申し訳ない展開に。来週以降でどこまで修正できるか。

3コマやった日の夜はあまり使い物にならないことにも徐々に慣れてきた。湿度がやばいのもあり、頭働かず。数年会っていない友人の個展のオープニングトークの動画を見る。コロナじゃなければ展示行きたいところなのだが、どこも開いていない京都にこのタイミングで行くのもどうなんだという。さらばのyoutubeいくつか。このタイミングで競馬企画やるのもさすがだし結果も神がかっていた。あと『ニューヨークで考え中』一巻を。

 

526

対面のため寝不足のなか早起きし遠出してきたのに2限が体育祭で休講というまさかの知らせを聞き脱力。オリンピック強行する国の大学だけあるが、正気を疑う。1コマやって帰る途中で上映情報を入手、慌ててアテネへ。ハリウッド黄金期唯一の女性監督だったらしいドロシー・アーズナー監督作二本。

『人生の高度計』(1933)。キャサリン・ヘップバーンの初主演作。女パイロットかつ蛾のコスプレもしちゃう彼女のかっこよさと可愛さが全開。ヘップバーン演じる主人公にどこまで女らしさを付加するか、というあたりで当時の偉い人たちとのせめぎ合いがあり、この辺の落とし所になったんだろうと想像しつつ観た。プレコード期だけあって不倫しまくりの現代的な展開もぐっとくるものが。

『恋に踊る』(1940)。男をめぐってステージで殴りあい、裁判までしといてカラッと仲直りする踊り子2人の河原で喧嘩する青年たちのような爽やかなシスターフッドに感涙。主人公がステージに窃視的な視線を向けエースであるバブルスちゃんのかませ犬である彼女に野次を飛ばしまくる客を睨み返し演説するところは、悪い意味でfemale gazeって感じで説明臭さも相まってそんなに最高、とは思わなかったが、その後普通にキャットファイトが始まり、しかも絶交しないのはめちゃくちゃ良かった。推しはキャラ的にも見た目的にもルシル・ポール=バブルス。最近のだと『ハスラーズ』のJローとかにも通ずる姉御ノリ。

移動中にトロント『ケアするのは誰か?』を。

 

527

対面2コマ、オンライン1コマ。移動中に熊谷晋一郎『リハビリの夜』を。

 

528

2コマ。アテネに移動してエンゲル=オーキン関連作三本。オリジナルの35mmカメラを用いたドキュメンタリータッチの作風がカサヴェテスやヌーヴェルヴァーグに影響を〜、という惹句に惹かれて。

『小さな逃亡者』。大傑作。兄とその友人に担がれ銃で遊んだ末に兄を殺してしまったと思い込んだ弟が、一人兄の大切にしていたハーモニカを持ってコニーアイランドへ。徹底して運動と「欲望の感染」に焦点を当てているのがすごい。その中でオリジナルカメラを使っていることもあってか、例えば偽銃撃場面のモンタージュ写真屋での上下反転をめぐる短い挿話、鏡に映った自分を見つめる場面などで、「映画とは、映像とは」というテーマもさりげなく差し挟まれる。兄たちが目の前でやっていてなかなか仲間に入れてくれなかった野球遊び、本来であれば弟を置いて彼らが行くはずだったコニーアイランド。当地に向かった弟は、射的とボウリングでボールを投げることに異様にのめり込んでいくが、これは冒頭で自分が参加できなかった遊びを再演することで、その意味で銃撃ごっこにもつながる。ごっこというとその後はまる乗馬もそう。冒頭で言及された弟自身の得意分野と重なりつつ、弟は指名した係員の指導のもと、西部劇の主人公を演じるようになっていく。繰り返し遊ぶために小銭が必要となるが、空き瓶を集めて小金を得る方法も、浜辺で会ったやや歳上の男の子の行為の模倣である。空き瓶回収→遊び→空き瓶回収の無限ループでも退屈させることのないよう、編集で省略するところと残すところのバランス感覚も見事。模倣の反復を通じた成長、みたいなテーマもうまく表現されていたような。

この何もかもが流動的に動きの中にある感覚は文字についても言えて、兄がチョークで遊園地内に書く弟へのメッセージは、次々に現れる別の客のいたずらによってその意味を変えていく。地面や壁にチョークで書き込んだ文字を消したり修正したりするというモチーフは明らかにエンゲル=オーキンにおいては重要なものとなっているようで、次作『恋人たちとキャンディ』でも娘がカバと母の恋人の名前が同じことをからかう書きこみを足で消そうとする場面が出てくる。

『恋人たちとキャンディ』。幼い娘を持つ未亡人とその彼氏、三人の関係性を描く。子供の演出を超えた動きや表情を機動性の高いカメラで追っていく構図は前作とも共通。前作の遊園地に代わって、今度は動物園やデパートでのゲリラ撮影でリアリティを持ち込もうとしていた。

『結婚式と赤ちゃん』、結婚に踏み切れない結婚式と赤ちゃんだけ扱う写真屋で何とか生活する貧乏移民カップルの物語。同時録音で祭りの様子を記録しているあたりがキモなのか。おそらくは設定もハリウッド的な夢物語へのカウンターとしてのリアルNY若者移民ライフを記録するという狙いが先にありそうな感じだった。男の方の煮え切らなさと表裏一体のマウント取りに行く感じがなかなか厳しかった。

休憩中に友達が言ってたが三本とも全部父親が不在、というのも確かにそうだなあと。何かしら当人たちの環境が反映されているのだろうか。

夕食後、資料を探している間にラジオ的に聞いていたシネフィル軍団のスペースにいつの間にか参加してだらだら喋っていたらあれよあれよという間に朝になっていた。

 

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やや寝不足のなか、昼から馬喰町へ。土曜しか開いていないというスーパーおしゃれ雑貨屋を冷やかした後、フクモリで魚食べて、ギャラリーaMで黑田菜月「写真が始まる」。3つ見てきた「約束の凝集」シリーズではここまでの個人的ベスト。

「友だちの写真」、2枚の写真をめぐるゲームという小さな仕掛けが絶妙な距離を生み、今度はその距離がそれを越えようと試みる新しい言葉を生む呼び水となる。なんとなくやっているようでかなり考え抜かれた仕掛けになっていることが見ているとだんだんわかってくる。キュレーター長谷川さんとのインタビューで出ていた「批評と制作」というアナロジーがまさにはまるな、と。写真の持つ暴力性や「危うい側面とか、結局写真は単なる写真でしかないってこととか、そう言ったことを一度受け入れて、それでも続けているのがよくわかる」という長谷川さんの評、および「「自分のほうがより厳しくて不毛な荒野にいるんだ」ということを競い合うのをやめよう、ということ」、という作品の映像に向けた言葉には膝打った。本作における「荒野からの帰還」の有り様からは、批評アレルギーとかファンコミュニティの自閉みたいなトピックへの処方箋の一つとしても考えられるようなポジティブさを受け取ることもできそう。言葉にできること、写真にできることを適切に突き放しつつも同時に信じること。

「部屋の写真」においても、撮影者である黑田さんと写真に撮られた部屋に住む被介護者を一切映さずに、あくまでもその部屋に通ったデイケア介護者の視点から写真を語り直す、という設定が見事に機能していた。写真と言葉の関係、映像における写真の位置、という点でユスターシュの『アリックスの写真』あたりを想起したが、撮影者が第三者に写真について語るユスターシュ作品と比べてもより間接的になっている点と、デイケアというこれまた微妙な距離を挟んで写真に映る空間と関わった人が語り手となっている点で、より写真と言葉のズレがクリティカルに前景化していたような。整音が黄永昌さんだったこともあり、どことなく濱口・酒井の東北記録映画三部作を思い出しもした。

行くはずの映画間に合わずも、天気良かったのでぶらぶら。ムーンドッグ感のあるアロハシャツをかなりの安値で購入。

夜自炊はフォー、ウーウェンから香味野菜の白和え、卵とトマトの炒め物。卵トマトはべちゃちゃになってしまったが味は問題なし。もうちょいトマトが崩れないように炒め時間に工夫が必要そう。

ミニシアターエイドから堀江貴大『いたくても いたくても』。映画よりプロレスが好きなのでは、と疑いたくなるほどに正しいプロレス要素に満ちた映画で好感持った。クドカンドラマの能に勝るとも劣らない通販会社×プロレスという無茶すぎる組み合わせを強引にまとめきるセンスは次作以降にも期待持てそう。映像面では特にハッとさせられるところはなかったので、案外映画というフォーマットにこだわりすぎないほうがいいのではという気もした。

 

530

寝起き悪し。昼食を挟んで前後でCL決勝観た。チェルシーの完勝。カンテはもうバロンドールあげてもいいのではないか。シティは色々起用ミスっぽいところがあったのに加えて、頼みのデブライネが怪我したのが痛かった。

明日の2コマ準備。去年も学生さまに見てもらったロクサーヌ・ゲイの動画、今年も彼女が言うgood/badの解釈を間違えている人がめちゃくちゃ多かった。一回でもひねりが入っていると解読しにくいということなのか、そもそもちゃんと観てないのかどっちなんだろう。夕方以降、遊びの予定を断り酒を飲まないことに全精力を傾けてしまったためか終わらせるはずの事務仕事何もできず。さすがに寝る前自己嫌悪に陥る。

 

531

午前オンデマンド2コマ。

Twitterで見かけたので、cinefilに公開時にアップされていたっぽい『まともじゃないのは君も一緒』チームの新作とスクリューボールコメディ史を絡めた鼎談を読む。まともじゃない字数だったが黄金期にとどまらず『ミニー&もスコヴィッツ』やファレリー兄弟、アパトーギャングなどにも迂回しつつ近年のアーロン・ソーキンの独自性を強調、他方日本では川島雄三をはじめ増村、森崎、濱口「永遠に君を愛す」まで言及されるめちゃくちゃ面白い内容。完全に自分の趣味ラインど真ん中であった。森崎×高橋洋×色川のドラマでデビューしたっぽい根岸洋之プロデューサーの貢献がどこにあったのかがよくわかった『婚前特急』の製作秘話も良かったし、何よりファレリー兄弟ベストは『ふたりにクギづけ』、で一同意気投合しているあたりに嬉しくなった。全然言及されていなかったから黒歴史認定なのかもしれないが、未見のハワイのやつも観ようと思う。

午後久々に大学へ。図書館でいくつか返却、取り置き分含めてまあ資料だから・・・と言い訳して大量に新刊購入。帰りに事務仕事進まんのは髪の毛がうざいから、という謎理論でこれまでにないぐらい髪を短くしてみたが結果ヤバ目の半グレみたいな髪型になってしまった。合計で自転車1時間半弱。

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禁酒法と灯火管制のせいで飲み屋と映画館今日までの場所多し。駆け込みで国立映画アーカイブ宮崎駿魔女の宅急便』なんと今更はじめて観た。どうも後で聞いたら違うらしいが舞台はロンドンっぽさあったし、いい部分(人情)も悪い部分(ウーバー感)もかなりケン・ローチみがあった。案の定特集は今日までに。『火祭り』観直すはずだったのに・・・。

アテネに流れて駆け込みで瀬々敬久初期作三本。「ギャングよ〜」の菜の花畑、『獣欲魔乱行』の土管、テトラポット、廃墟のホテル、キャンピングカー、『牝臭』のドア縦開きの車。とにかくロケ地とガジェットに唸らされる場面だらけ。特に『獣欲魔乱行』は大傑作。3本とも現在の気分にぴったりハマる閉塞感に満ちていた。

夜、旬素材ウーウェン自炊。蕪とクレソンの和え物がなかなかうまかった。ワサビにこだわればもうちょいよくなるのか。筍と春キャベツのスープはほぼ味噌汁だった。新玉ねぎ丸ごと煮、二回目は梅干し昆布ダシでやってみた。うまかったが梅がやや甘めだったか。

 

425

三度目の緊急事態宣言。昨夜からどこの美術館や映画館が閉まるのか一通り調べる。「香典のつもりか」のユーロはじめミニシアターの一部は呆れ返るとともに腹くくって営業続ける模様。浅草や末廣亭など寄席は休業妖精の「社会生活の維持に必要なものを除く」という文言への解釈(寄席は必要)を明示することで堂々営業宣言をしていた。一休さんみたいで良い。とりあえず自分はもともと行く予定だった映画や寄席に粛々と通うことしかできない。大学の授業については都内は全てリモートに。予想はしていたが埼玉は完全無視の模様。県外の移動をスルーしてどうするんだという気はするがもはや突っ込む気力なし。

ジジェクの日本オリジナル編集版『ロベスピエール/毛沢東』からバートルビー章。要は決して心からは信じていないけどあえて従っている式のシニシズムとも無縁ではない、カフェイン抜きコーヒーならぬ「暴力抜きの革命」に対して、しないことを「好む」バートルビーの不気味な姿勢を対置、ということなのか。抵抗や反抗の鋳型にはめるのではなく、彼固有の不気味さと向き合うこと。『パララックス・ビュー』末尾の適当すぎるノーマン・ベイツとのアナロジーの狙いもおそらくこの辺にあるということだろう。

辺見庸の『たんば色の覚書』も一応流し読み。自身も病魔と戦う中で、死刑囚にバートルビーを薦めようとしていた。

夜は信じがたい忙しさだった四月の締めの一つとして論文提出。すでに内容はできていたものを規格に合わせただけだが、そんな作業をする体力と気力がまだ残っているだけ偉い。さらに月曜のオンデマンド授業の資料を2コマ分アップしてようやく寝た。偉すぎる。

 

426

日曜に働きすぎたせいで事務メールいくつか処理した後夕方まで使いものにならず。最近月曜日は大体作業うまく進まないがまあしょうがない。これ以上頑張っても寿命が縮むだけなので徹底的にだらける。

今年のオスカーは昨年に続くアジア系に加え、年寄りの活躍が目立つ結果に。『ミナリ』のユン・ヨジョンの笑えるけど毒もある発言はどれも映画からそのまま出てきたかのようだった。主演男優賞の結果でまた色々もめそうだが、まあボーズマンのもアンソニー・ホプキンスのも観てないので適当なことは言えない。とはいえ、個人的には亡くなったから賞あげるみたいなのも死んだインディアンはいいインディアン的な違和感あるし、別に良かったのではと。とりあえずホプキンスの受賞作は観たい。詳しい出自全然知らなかったが、クロエ・ジャオが超金持ちの生まれでああいう映画を撮り、それがアカデミーで受賞した事実は中国国内ではなかったことにされる、という全体図は下手したら作品そのものより興味深かった。まあそもそも公開延期になってるもの多すぎ、一部リモートとかもあってとにかく小粒で地味な印象。

夜小倉さんのバートルビー+コンフィデンス・マン論を。バートルビーにおける法律家とバートルビーの関係を失敗した友情関係になぞらえ、そこにさらにメルヴィルと読者の関係を重ねていく構成は面白かった。関係が実際にうまくいくことはなく、いずれうまくいくと信じることもメルヴィルにはできなかったが、偶然関係が好転する可能性を完全に捨てたわけでもなかった(読者を得る可能性を完全に切り捨てていたわけではなかった)という結論はやや微温的では、とも思ったが、模範的な査読論文としてはこのぐらいの手堅さが求められるバランス、という気はする。

 

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今日から1コマ対面もリモートになり自室で3コマ。これはこれで別種の疲れが。昼に振り込みで郵便局行った以外外出もせず。わずかな時間で二度も救急車見て怖かった。インド株で色々やばいことになっているのだろうか。

ケリー・ライカート関連の演習はとりあえず『オールド・ジョイ』の映画版と原作の比較まで終了。原作への細かいアレンジがどれも絶妙に効いていることが判明。

 

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 昼2コマから帰って必死で準備の仕上げ。夜バートルビー連続講義最終回。まあ最低限の役割は果たせたか。自分は仕事あったのだが翌日祝日だしと軽い気持ちで打ち上げWeb飲みに突入したら結局2時まで。

 

429

二日酔いの中祝日にもかかわらず2コマ。腹いせに移動中の時間でラファルグ『怠ける権利』、帰りにシネマヴェーラでB級ノワール2本。アンソニー・マン『脱獄の掟Raw Deal』、ジョセフ・H・ルイス『ベラ・ルゴシの幽霊の館Invisible Ghost』。脚本・撮影最高の前者は旧作年間ベスト候補。最初から最後までちょっとずつこちらの予想を裏切り続ける展開面白すぎ。後者はゆるゆるの脚本に苦笑もベラ・ルゴシかわいかった。

 

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2コマ。バートルビー講義の積み残しや打ち上げで色々聞いた流れで本買ったり読んだり。『中動態の世界』の『ビリー・バッド』論をバーバラ・ジョンソンの論文とまとめて読み直し。大和田さんのユリイカ論文にしても國分さんの論考にしてもジョンソンの批判、歴史化の部分には納得。最近の学会誌とか読んでいて、特に19世紀文学とかだとさすがにネタ切れがひどく、キャノン化した研究の歴史化ぐらいしか挑発的な読みを提起する筋がなくなってきてるのか、とか漠然と考えていたが、2002年とかの段階ですでにその方向で書かれたものも全然あったことに今更気づいた。

『中動態の世界』ジョンソンともう一つ大々的に取り上げられていたアーレント『革命について』も読むか、と思ったが前作を途中でやめてたことが判明したのでまず『人間の条件』に戻ることに。

3

 

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昼から某最終講義。終わってから遅れていた書評原稿をなんとか仕上げる。夜はチケット買ってしまったエヴァの復習で破とQを。

 

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ホワイトデーの昼から渋谷で豊田道倫ソロライブ。おそらく去年の一月のMoodyman以来なのでだいたい400日ぶりぐらいのライブ。まあ椅子有りなら映画館と一緒なので特に怖さはなし。モッシュピットとかはまださすがに行きたくないが。とはいえ遅れて来て横に座ってた客がほぼ常になんかしらの動きをしてて大層気が散ったし、あまりに髪を弄り回すせいでそこから花粉が飛んできたのか鼻もえらいことになってしまったが、そういう不快な客と隣り合うのも考えたら久々だと妙な感慨にふけってしまった。

冒頭から若い女友達とモーニングした話などの色っぽい駄話を交えつつ、最近の曲多めのライブ。わりと昔のもので覚えてた曲は「ゴッホの手紙、俺の手紙」の一人バージョンぐらい。この曲はもともとバンド編成の曲だからだろうが、皆が知ってる曲はアレンジ変えたりする様子に少しディランの来日を思い出したりも。はじめて聞いた「赤ん坊みたいな50歳」で始まる曲がすごすぎた。最近特に一時期カリスマ化した人ほど、50代で本格的に時代とずれて老害化していくパターンがめちゃくちゃ多い中で、いつまでも赤ん坊みたいでいられる彼だけが、どう考えても歳をとるほどどんどんかっこよくなっている。自分は一切の虚飾抜きで、でも赤いジャケットとサングラスでかっこつけて人前に身を晒せるような50代になれるだろうか。最後の曲で少し泣いた。

夕方からTohoで『シン・エヴァンゲリオン』観た。以下ネタバレ。

 

 

Takeshi'sかつトイ・ストーリー4というか、失敗を運命づけられた蛇足としては最大限頑張っている感じはあった。作品として好きかと言われると好きではないけど、ゲンドウがあの電車に座っているシーンではボロ泣きしてしまった。まあ全部回収するためには二人が対峙するしかないというのは予想はついていたが、あんなにあっさりと父側から降りてきてクソダサい独白を長々あの声で始めるとはさすがに予想していなかったので、ついに庵野が還暦にして自己の中二性と正面から向き合ったのか、と妙な感動を覚えてしまった。自分はあまり思い入れのある世代ではないが、少し上の直撃世代の先輩たちを見ると、95年当時はおそらく庵野=シンジ=自分で感情移入しまくっている人がほとんどだったと思う。今回は自分の観た印象では庵野の中ではかなりの部分シンジではなくゲンドウに自分を仮託しているところも出てきていたような気がした。稲葉さんが書いていたように製作陣がヴンダーと考えるといろいろつじつまが合うところもあるな、とは思うが、まずはあれだけわけわからん用語を適当に振りまいて計画通りとか言ってきた男に「人付き合いが苦手だった」とか言わせてしまう素直さはすごいな、と。序盤のいや俺も『風立ちぬ』出たしね、ということなのかよ、「おもひでぽろぽろ」かよとツッコミたくもなる第三村の宮崎駿ー高畑ラインの里山感丸出しの村設定がわりと延々続くところは最初は勘弁してくれとなったが、まあこういうの見て育ったんで、これでいいわけでもないと思うけど、一応入れときますね、ぐらいの距離感だったのかも。最終的にみんな大人になってつがいを作って子供産んで社会に貢献します、みたいなシンゴジラ以上に真っ当な定型発達礼賛ぽい締め方には、スキゾとかパラノとか言ってた頃もありましたよね・・・とか思ってしまったが、とにかくメインキャラ全員成仏させなきゃ、というのは感じた。(RP1と同様、別に現実>虚構とか言ってるわけではないだろ、と言ってる人がいたのはまあそうかなとも。)そのモチベーションは必ずしもキャラクターや物語への愛着とかでもなく、スポンサーめちゃくちゃいたり社長だったりとも関わってそうで微妙だなとも思ったが、それも素直ということか。あと、特に中盤からは謎の一色ベタ塗り空間でのごちゃごちゃが続くせいで映像面がしょぼすぎて、アニメとして面白さを感じる部分はほとんどなく、最後に歴代エヴァにグサグサ槍が刺さるところとか首無し綾波集団とかはなかなかに厳しかった。とはいえ、よくこんなもの作ったなあとは思う。

で、古参ファンの諸先輩方の感想など確認できる範囲で巡回してみたが、やはり旧劇みたいに庵野に突き放されたかった派?の人たちはみんな怒っていて、そういう感想を読めたのもまた嬉しかったり。特に七里さんのものなどからは、久しぶりにはてな時代を思い出したりしてしまった。知ってる人以外のもので面白かったのは、破のゲンドウ鍋パ実現世界線について妄想してる人と、鈴原サクラ怪文書という一連の書き込み。おそらく他のキャラの行動原理や到達点があまりにも多義的な解釈を許さないトゥルーエンド的なものばかりだった反動なのか、唯一感情的になって銃をシンジに構えたりとわかりにくい行動をした彼女の心理を読むことに従来の深読みしたいファンたちの気持ちが吸い寄せられたということなんだろうか。謎本的な解釈の欲望の唯一のはけ口、と考えるとなかなか興味深かった。

例によって店が閉まるぞということで近くの立ち食い回転寿司。かなりのスピードで食べられることがわかったので時間ない時にはいいかも。

寝る前にかなり久しぶりにカップヘッドやったがもう全然クリアできず。難しすぎる。

 

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午前中、近所の公園。目当ての読書スペースは定休日だったのでベンチでしばらく本読んだが、日光は気持ちよかったものの案の定花粉で鼻が死亡したので早めに退散。

しばらく昔のKPOPアイドルの動画を見ていたらなぜか数時間が経過。夕方にかけてしばらく放っておいたヒース、アンドルー・ポター『反逆の神話』読み終える。印籠のようにヒース持ち出す逆張りの人もそれはそれできついが、ヒースより普通に〜ナオミ・クラインが好き〜な人は周囲に結構いるのでそれもきつい、というところから出発してどうするか。

意外と似てるのか、という連想から飛ばしてたジェイムソン『アメリカのユートピア』のジジェクと柄谷のやつを。何となく思ったこととしては、グローカルがアツいよね、といった左翼に対してダメ出ししている点では実はジジェクやジェイムソンもヒースと出発点は同じ、かつ特にジェイムソンが強調してジジェクも評価している点として「共産主義においても羨望と敵意がなくなるわけがない」という主張があるわけだが、羨望の位置を重視しているところも実はヒースと重なっていたりする(ジェイムソンとジジェクラカンに依拠する一方、精神分析ディスるヒースが頻繁に持ち出すのはヴェブレンの消費社会論と言う違いはあるが、実はそんなにそこの差は重要ではないような気もする)。まあ特にジジェクマトリックスとかゼイリブとかバートルビーが大好きで反逆的消費者ポーズ丸出しのところもあるのだが、どの程度確信犯でポーズでやってるかとか、どこにヤケクソで闘争するポイントを置いているか、とかは考える必要があるのかも。

一方でジェイムソンの国民皆兵制という提案は、考えるほどヤケクソの悪い冗談としては面白い気がしてきた(週末に聞いた福沢の「瘠我慢の説」を今あえて「失われた大義」として召喚する手つきもこの辺と近いヤケクソさを感じた)が、経済の領域と文化の領域、下部構造と上部構造の徹底的分断を措定して政治そのものの過程を消去する、というのがうまくいくわけないし、ジジェクのツッコミはわりと痛いところをついているような気もする。毎日四時間ぐらいみんな働いてあとは好きなことしようぜ、的な提案に対して「こうしたことは可能だろうか。卑猥な快楽は、義務としての規律された行動をつねに汚染しているため、そういう行動に快楽を覚えることにならないだろうか。また逆に、軍事的規律は快楽をすでに汚染しているため、快楽は課題としてなされる義務にならないだろうか」(323)。あと、ジェイムソンの数時間の拘束時間以外にクリエイティヴなことでも何でもしたら、みたいな結論は、ちょっとグレーバーの『ブルシット・ジョブ』の胡散臭さともつながっているところがあるような気がする。パッと思いつく範囲だと、もしジェイムソンやグレーバーがいうように自由な時間が増えたとしても、結局そこに羨望と敵意がめちゃくちゃ絡んでくるに違いないというところか。あんたらみたいにみんな本書けたり、アート活動に勤しんだりするわけではないよというか。

ヒースの方は逆に対左翼のディスり芸の面白さで下駄履かせて評価したくなってしまうが、反論じゃなくてストレートな主張として何言ってるか、で考えるとめちゃくちゃ微温的だったりするところがまあ問題という感じはする。あと著者たちに言ったら嘲笑されそうではあるが多少は的を射てそうなツッコミとしては、カウンターカルチャーに代表される消費文化というのは要するにほぼアメリカ文化のことで、カナダ人の著者二人による対アメリカの羨望混じりの競争意識から発した攻撃性が必要以上に過激な批判の仕方として文中に随所に現れてはいて、それはわりと精神分析的に解釈することもできるだろう(その意味で日本の若いヒース好きが京都の人とかなのも妙に納得してしまうところがある)。競争的消費が「底辺への競争」を生んでしまう流れあたりの議論はとても説得力あったのでヴェブレンはちゃんと読もう。あとどうでもいい細部ではセリーヌ・ディオンのダサさをカナダあるあるかつグローバルギャグとして通じると踏んで書いてそうなのが面白かった。グザヴィエ・ドランが読んだら怒りそう。

 

316 

午前中、現代思想2月号「精神医療の最前線」を。毎年イマーゴぽいこの特集だけは金払って買っている。東畑・斎藤対談の具体例に根ざした話は勉強になった。小泉義之中井久夫批判はあまり考えていない方向からだったがまあ著者の日本版「狂気の歴史」みたいな近年の仕事からすると納得の切り口か。他、村上靖彦ウィニコット使いや上尾論考の精神分析とコロナについての記述はそんなにはまっていなかった印象。貴戸「コロナ禍と家族」が徹底して具体的な問題に寄り添っていて良かった。また黒木論考のゴールドウォーター・ルールについては恥ずかしながら存在を知らなかったが、それがトランプの大統領選で再度注目される流れからは、著者は言及していなかったもののゴールドウォーター本でもあるParanoid Style本でのホフスタッターを想起。

午後は久々に大学へ。自習室の掃除、借りていた本の返却、生協で予約していた本の受け取りなど。なかなかの冊数をカゴと背中に背負って自転車で往復したら汗だくに。

大学図書館で人文系雑誌つまみ読み。村田沙耶香の自慰をめぐるエッセイはボカシ一切なしの直裁さでちょっとびっくりしたがまあらしいといえばらしい。よく作中に出てくる自慰描写が思った以上にメタファーとかアレゴリーとかではなく自分の感覚そのまんまだったというのはさすがに意外だったが。あと毎年読もう読もうと思いつつスルーしてきた「みすず」読書アンケート号をここ2年分。情動、エンパシー関連本などいくつかめぼしいものをメモ。専門外で面白かったものを気軽に紹介、みたいになった時のここ数年の医学書院「ケアを開く」シリーズの強さはすごい。自分でも入れるだろうペギ夫「やってくる」をはじめ、東畑「居るのはつらいよ」、伊藤 「どもる身体」などポップさとハードコアさのバランスが絶妙な本が次々に出ている印象。伊藤本はまだ積んでいるが、近年読んだものはだいたい新書よりは突っ込んだところまで書くけど専門外でも気軽に読める、という匙加減が見事。

深夜、カーペンター『ゴースト・ハンターズ』。チャイナタウンもの。あまりのバカバカしさに嬉しくなってしまう。ただ省略はめちゃくちゃ上手い。一切のストレスを感じずぐいぐい引きこまれた。たまたま見たタイミングが主演カート・ラッセルの誕生日とかぶっていたことに後で気づく。

 

317

昼から中野。LABO麺二回目。今度は一番ベーシックなやつを。前回ほどの驚きはなかったがラーメンの範疇には入る味で、単純な好き嫌いでいえばこっちの方が好きかも。

歩いて東中野へ。道中なんとなく何年ぶりかわからんほど久々に聴いたBACK DROP BOMBの1stが良すぎて泣きかけた。道に迷って遅れそうになるもなんとか間に合ってポレポレで小森はるか特集。「米崎町りんご農家の記録」、「根をほぐす」はメディアテーク作品。前者ははじめて観た。「波の下、土の上」での花を植える人たちのエピソードとも連関するりんご以外を植えるエピソードなど良かった。もう一本、砂連尾理ダンス公演「猿とモルターレ」映像記録。おそらく濱口竜介「Dance with OJ」に映っていたリハーサル風景の本番と思われる公演。こちらには濱口さんは関わっていなかったようだが、東北記録映画三部作の酒井耕氏が小森さんとともに撮影で参加、瀬尾さんの「二重の街」が作品全体を貫くテクストとして用いられ、彼女自身も朗読で参加していた。地元高校生とのワークショップ要素やテクストを酷使するスタンスなど面白かった。ただ、自分にダンスのリテラシーがなさすぎることも関係しているとは思うが、一回見てすぐピンとくる感じでもなかった。あと、小森パートと思しき撮影が全部遠くからだったので彼女の被写体に寄っていく時のカメラの良さが他作品ほどは出ていなかったように思った。近くから撮ってたのは酒井さんと思われるが、少なくとも今回見たものでは高校生とともに輪に参加している場面のショットなどは肝心のところでそもそもあんまり採用されていなかったように見えた。別バージョンとかもあるのだろうか。

 

318

夕方、ここのところ花粉で減らしてるが久々に5キロ。筋トレもいろいろ。珍しくたくさん身体動かした。

夜、ジョン・ヒューストン『白鯨』。まあバサッと切るところは切ってるがわりと素直なアダプテーション。深夜、スタローンvsウェスリー・スナイプスの『デモリションマン』。暴言吐くと罰金とか管理しすぎで殺人事件がなくて警察が弱体化しているとか、雑なようでなかなか的を射た風刺が効いていた。今だとスタローン演じる主人公の痛快さはポリコレ棒に屈しない自覚的老害の頑固オヤジ的な方向で読まれそうでもあるが、そんな風に真面目くさって考える気を挫くような筋肉要素とバカさ加減も合わせてわりと『ゼイリブ』的な雰囲気のある面白さ。ヒロインのサントラ・ブロックが異常に可愛いのもポイント高い。ヨシキ氏とかがコロナ映画として挙げてたのは、地下のレジスタンス集団と自粛中のこっそり飲み会とかのアナロジーだったのだろうか。ブログの破壊屋ってこの映画からきてるのか、というのはなんかオエッとなった。

ヴァレリームッシュー・テスト』。時期や発表方法によってばらつきはあるものの、思ったよりなかなか青臭くて好感持った。隠者志向の自意識過剰批評家が書いた小説という意味では森敦の『意味の変容』なんかを思い出しもした。

坂手「バートルビーズ」。思ったより原作まんま使ってたりするパートもありびっくり。

 

319

朝自転車でTSUTAYA。オープン前になんとか返却。まだこんなことしてる人間はもうほとんどいないからむしろ貴重なのかも、とか考えつつ。風呂で汗流して昼歯医者。一応今回の治療サイクルは終了。超重い腰をあげて歯間ブラシ導入を決意。夕方にかけて怒涛の勢いでメールと事務書類を処理。ポストに色々投函。おまけに部屋の掃除もした。めちゃくちゃになっていた本をかなり整理したが、探している本は出てこなかった。

もろもろの作業中は引き続きBDBを出た順に。ミクスチャーというジャンルは完全に消滅したけど2010年代の全然聴いてなかったやつも変わらずかっこ良い。

 

320

午前、シャマランの「サーヴァント」第2シーズンラスト2回を。バスギャロップがどの程度製作の中心になっているのかよくわからないところはあるが、シャマラン作品として見ると陰謀論ブームと自作の関係をかなり意識しているところは本当に面白かった。選挙前後からバイデンにかなり肩入れしていたのも含め、トランプ的なものにおける「信」の問題については応答する気満々だと思う。シーズン2までの段階でカルト批判としてベースはしっかりしている気はした。まあ集団vs個になってくると今度はアイン・ランド問題が出てくるので、そことの兼ね合いをどうするかが腕の見せ所だろう。

昼からアテネへ。席減らしのせいもあってまさかの一本目満席。空いた時間に近くでカレー食べたが、久々に店主の不愉快さが味の旨さを上回る案件に遭遇。もう行かない。

クルーゲ『定めなき女の日々』。まずは夫婦のすれ違いをユーモラスに描いた序盤がいい感じ。クソすぎるプレゼント交換、夫への対抗心で本借りまくるが読まない妻の描写など、悪意がひどい。ミソジニー貧乏クソ夫批判の女性映画なのか、と思わせつつ妻役(多分監督自身の妻)が違法の堕胎業を辞めたところから彼女が突如政治に目覚めるという明後日の方向へ話が展開。毎日堕胎してたはずの彼女が工場で数人の子供が死んでいる事件が大問題だから一面にしろと友達と新聞社に殴り込みをかける場面や、暇だからとブレヒトの歌を暗唱している場面などは、明らかに彼女たちの知性を侮っている感じありありで、ストレートなフェミニズムをうたった社会派映画などでは当然ないのだが、とはいえどぎつい悪意の中にも結局社会が個にどう影響を与えるか、という視線が常にあるところが独特。素直なリベラルが喜ぶような方向に一切持っていかずに社会の問題と対峙するというスタンスはやはりドイツ特有のなにかなのか、シュリンゲンジーフなどにもある程度通ずる部分があったような。

神田川沿いの常陸野ブルーイング・ラボでクラフトビールちょっと引っかける。川沿いのテラス席をかなり距離あけてたくさん設けていたのが、このご時世ならではな感じ。

川崎ロック座で人生初ストリップ。入ったタイミングがちょうどつむぎさんのラスト公演で、超満員立ち見の中、アイドルの引退ライブのように四方から紙吹雪が舞う祝祭的な空気に浸る。その後、フワちゃん、KPOP、バーレスクと日韓米をまたぐそれぞれのモチーフのダンスを見ながらなんとなく雰囲気に慣れてきたところで、最後にみおり舞「春の祭典」でロシアならぬ異界に引きずりこまれた。バレエの要素があるぐらいしか事前情報を調べずに行ったので、暗転後にステージ中央に翁が出現した瞬間にはさすがに度肝を抜かれた。烏帽子かぶって足袋履いてたから、ストリップなのにスタート時点ではそもそも手しか露出してないという...。特に円卓ステージで花束を自分に打ち付ける終盤の舞の鬼気迫る雰囲気には圧倒された。4公演×10日のラストと考えるとより恐ろしい。緊急事態宣言下の深夜に密かに小屋に集っている人たちのマナーは名画座よりよっぽどよくて、危惧していたような要素もなく、女性客も普通に何人もいて居心地の良い空間だった。一応昔の文化の名残という感じで短めの開脚コーナーなどは用意されていたが、ロマンポルノとかでみていた小屋の雰囲気とはかなり異なり、ダンスの方向性も含めてどっちかというと地下アイドルイベントとかに近いものになっているような気がした。次回は他の箱に行ってみたい。

 

321

結構な雨。昼すぎBunkamuraへ。あいにくの天気の中ドゥマゴのシエスタ演奏を見てからドアノー展。写美のキス写真でおなじみの人だったが、他のものは何も見たことがなかったので予想以上に楽しめた。写真単体のクオリティ以上に夜のパリの様々な現場に金落としてちゃんと通っていたからこそすくい取れたであろう空気にぐっと来た。本人の発言にもあったが作品を作りたい、いい写真を撮りたいから遊びに行っていたわけではなく、立ち会った現場を撮りたい、という動機がベースというところが信用できる。

初台に移って ICCで最終日の千葉正也個展に滑り込む。ここ最近の展示では間違いなくベスト。めちゃくちゃよかった。飼っている亀が快適に過ごせることを中心に考えたと思しき展示構成にまずびっくり。立体ではない作品の多くを壁以外に設置することで裏が丸見えだったり片側からしか作品が見えなかったりするのも新鮮だったし、どうも一貫してこれまでもやっていたらしいチケットや展示案内を絵画の中に入れ込んでしまう手法も面白かった。何より途中から驚かされたのが、確実にはじめて見たなんなのかよくわからないオブジェや絵の中に現れるモチーフが、展示全体ですべて二回現れるという不気味すぎる構成。亀すら二匹いること、観客すら映像に撮影されて二箇所に現れていること、同様に警備員やスタッフについても本人をモデルにした絵がなぜかホットカーペットに描かれていることで、次第にこれはもしや展示空間を構成するすべてのものが二つ現れるのか、と疑い出し、最終的に全体の法則に気づいた時はぞっとするとともに笑ってしまった。貴花田貴乃花の手形がそれぞれ二つずつ出てくるのもそこは別換算なのか、という謎の感動があった。他人の顔になぜか微妙に角度をずらして自分の顔を描くという自画像シリーズも同じ関心からくるんだろうけど、気持ち悪すぎて最高だった。エイフェックスツインかよという。唯一ひとつしかなかった気持ち悪いカップルの絵は目の前に鏡が据え付けられており、おそらくそれで二つ分ということなんだろうけどそこにもハッとさせられた。あと、鉛筆で書いたモノクロの絵は別扱いという感じなのか、それらだけは小学生かアウトサイダーアーティストが描いたみたいな単調で平面的な絵柄で、どっちかというと技巧的な油彩との落差がでかすぎて妙に印象に残った。あれはなんだったんだろう。

近くの蘭蘭酒家へ。餃子、海老蒸し餃子、揚げピータン油淋鶏、土鍋麻婆豆腐、アサリチャーシュー入り黒チャーハン。ビールと紹興酒ハイボール。なかなか良い店。

夜ははじめてニコ動に課金して約5年ぶりの白石晃士「生でコワすぎ」を。今回はカメラ振るまでの座りトークがとにかく長く、それがおそらくは過去二回を見ているであろう熱心なファン向けのサスペンス性を生んでいたような。大迫さんの台詞量が半端じゃなかったが、冒頭でのニコ動視聴者への煽りから素晴らしかった。市川の「アップデート」発言に嚙みつくくだりはテレビや映画だと結構アウトすれすれのラインだったと思うが、その辺りも配信だから入れていく、というさじ加減なのかなと思う。分身工藤の大量出現、市川の兄が江野設定、無印の世界線を工藤が認識していることなどは新シリーズへの前フリなのかな。白石ユニヴァース版ミスターガラスとして、可能ならNEOとかもひっぱりだして巨大スケールの「コワすぎ」新作をなんとか完成させて欲しい。ついでの流れで前回の貞子vs伽倻子便乗企画の回も改めて観たが、今回のよりかなり大掛かりで金もかかっててサービス満点の内容だった。こんなことやってる人はさすがに世界で一人だろう。ウィリアム・キャッスルが生きてたら確実に嫉妬するレベル。

川崎にはじまり写真のパリ、ICC、そしてネットまで、昨日今日と生で「現場」に立ち会うことはやっぱ大事、と思わされるイベントが多かった。まあまだしばらくコロナでどうにもならないことは多そうだが、いける範囲でなんとか追いかけたい。

 

322

もともと緊急事態期間用に再開した日記だったが、いつの間にか期間が終了していた。去年の一度目と比べると飲食店が閉まっていて不便なだけの無意味な時間だった。いまだに全然検査しない上に変異株色々入ってる中でワクチン接種も進まずで今後も実質的には緊急事態が常態化したような状態が続くんだろうけど、この状況でまだ本当にオリンピックやる気なのか。四月から大半が対面になる大学も感染状況次第でまたコロコロやり方変わったりするんだろう。

午前ヴェブレン読み。冷静にひどいこと言いすぎ。ファッションに関する記述の口の悪さは完全にヒースに受け継がれているような。

近所の桜がいよいよ花見客押し寄せるレベルで咲き始める。花見の自粛をお願いするプラカードを掲げた警備員がうじゃうじゃいて景観を損ねていた。

花粉対策に部屋の掃除がいいという話を聞き(当たり前)、昼過ぎ久々に掃除機使ってすみずみまで。午後は全く集中できずだらけてしまう。週に一回はこういう日がある。

夜なんとかメルヴィル「ベニト・セレノ(漂流船)」を読む。やはり当時の船も街路と同様見知らぬ他者と出会い得る期待と不安を煽る場所としての性質が強かったんだなと改めて。好意的に解釈すれば近年のジョーダン・ピール作品とかにまでつながる黒人へのステレオタイプ的な印象を逆手にとった人種ものホラー、ミステリの要素があり、たしかに当時の厳しい検閲を避けながら差別を批判する意図があったと読めなくもないんだろうけど、どこまでそういう意図で書いていたのかは怪しいような気も。というか、もう少し言い方を変えると、作者がベニートの最後の選択に奴隷制との関係を書き込んでいるのは間違いないとは思うのだが、かといって彼の謎を奴隷制との絡みだけに回収して読んでしまうのもどうなのか。むしろ90年代前後の研究史でそういう読みに脚光が当たったことをそろそろ歴史化するべきなのかもしれない。あるいはエマソンとの関連もあるのかもしれない船のジグザグの航路にも似た、中盤のデラーノ船長の安心と不安を交互に行き来する心理の揺れを描いた部分は、やはりポーの街路表象やハルトゥーネンとかの都市論、『信用詐欺師』あたりを想起するところ。結局は後半に絵解きされてしまうのが少しつまらないところだが、なかでもとりわけデラーノの不安を誘発する法廷編に入るまでのドン・ベニートの不穏さは、「私は行くことができません」(250)のリフレインも含めて、ややバートルビーめいた部分も感じさせる。翻ってバートルビーではウォール街という空間がどういう性質を担わされているか、をよく考えた方が良い気がしてきた。あとは白鯨やバートルビーにも通底するモチーフとしての墓や棺がやはり気になった。

セールで安くなっていたので深夜ユニクロUのセットアップなど買ってしまう。さすがにセットアップはユニクロではまずいのではという気もしなくはないが、普通に洗えるらしいのはでかい。

 

323

朝まで寝られなかったので昼まで寝た。金曜朝早起きしないとなのを忘れていたが、それまでにリズムを戻せるのか。

ネグリ=ハート『帝国』2-1から2-3。デカルトからヘーゲルの流れを批判しつつ主にスピノザドゥルーズ=ガタリの系譜を対置。2-1のフーコーから2-2の国民国家論、2-3のポスコロまで、この辺りまではわりとベタなポモ議論という印象。こういう論の運びだとはあまり想定していなかった。

散歩中に聴いた先週分の伯山ラジオからの流れで夜TVerで伯山カレンラスト二回。花田優一回ぐらいしか見てなかったが、いい締め方だった。

 

325

博論の講評受け取り。

 

326

 学位授与式。百年ぶりにらすた食べて帰宅。日吉は大学どころか駅周辺まで一切タバコが吸えなくなっていた。

 

 

 

2-3

211

シネマート新宿で『クラッシュ』、『ヘンリー』、『アメリカン・サイコ』。

 

212

昼過ぎまでひたすら論文のエラータ修正。神経使って疲れた。

小沢昭一『私のための芸能野史』。

サーヴァント2話まで。シーズン1の展開、観ながらなんとか思い出してきた。

 

213

アテネフランセで『レフト・アローン』。文芸坐でキャサリン・ビグロー『ブルー・スチール』。

 

214

昼に修正版の論文提出。わざわざ大学に一番近いところに出しに行ったが、昔から世話になっていた個人経営の店は移転してしまっており、仕方なく某チェーンへ。びっくりするぐらい担当の対応が要領を得ず、さすがに不安。どうなってんだ。

庭園美術館で「20世紀のポスター」展。もうちょっとタイトルなんとかならなかったのか。最初全然興味沸かなかったが、よくサイトの説明見たら1930sあたりまでのスイスやドイツ、ソ連あたりのめちゃくちゃかっこいいポスター群が大量に展示されていることに気づいて慌てて。後半の60s以降への変化を印刷方法の移り変わりと並置するキュレーションも良かった。よく考えたら新館にいった記憶がまるでなかったので、改修以来初めて行ったのかもしれない。

帰りに数年ぶりに「とんき」でロースかつ定食。久々すぎて忘れていた箸で衣が取れてしまったりする感覚を思い出しつつ。まあ随分と混んでた。待ち時間的にも感染対策的にも二階選んで失敗。いろいろなかっこいい過去のポスター展示の図録などを振り返りつつ、SOCIETEと雷電の缶ビール、タリスカー

 

215

朝、ゴディバとローソンのコラボ企画からカレーパンとチョコパン。特にカレーパンはわりと期待していただけにめちゃくちゃ普通の味でがっかり。

昼、久方ぶりに大雨に降られる。タイミングが色々不運だった。近所の蕎麦屋で田舎蕎麦。ど平日の真昼間からジジイの集団客が酒盛りをしており、楽しそうでいいけどこの構造の店でこの時期は勘弁してくれとなった。

夕方、天気も落ち着いたしなんとか残席ありそうだったので、口上から駆け込みで末廣亭桂宮治真打昇進披露興行、新宿中日。口上で落語の技術と魅力について語っていたゲスト談春の、その双方を見せつける「替わり目」を満喫。宮治師匠は「怪談青菜」。後半になるにつれ魅力が炸裂する構成。楽しかった。

夜、以前寝落ちしていたカーペンター『ダークスター』を再び。一切のカネをかけずにほぼ宇宙船内部でここまでの事ができるとは。デビュー作にしてカーペンターの異形の才能が迸りまくっていた。オフビートとくくるのも的を得ていないような感じがするが、とにかくただダラダラしているだけなのに全く飽きずに見られる細すぎる線を突いてくる脚本とメリハリの効いた撮影が凄まじい。明らかにビーチボールに足生やしただけの宇宙人とダン・オバノンが追いかけっこするどうでもよすぎるくだり、特にオバノンがバカみたいに何度も上下動するエレベーターにぶら下がったり挟まったりする場面はめちゃくちゃ笑えたし、異常な引っ張り方は完全に『ゼイリブ』のプロレス場面に通じるな、と。オバノンが寒いこと言って他の乗組員に無視されるところ、死んだはずの船長の間の抜けた冷凍催眠、船長代理の謎のオリジナル楽器、ミサイルに現象学を教えて命令を拒否させるというふざけすぎの展開、などなど最高の細部が多すぎ。そして何よりかっこよすぎるラストには喝采。とりあえず春までにカーペンターたくさん観たい。深夜にかけて『ブルックリン99』1話。これは流行るわ。疲れた時ちょっとずつ観たい。寝る前に『サーヴァント』3、4話も。シャマラン娘→シャマランの親バカリレーが炸裂。

 

216

朝から花粉の気配。我々は小池の公約破りを決して忘れない。

午前、サーヴァント5話とAlone Together読み。夕方ユーロスペース相米『光る女』。先日ノアの試合を見た流れで我慢できなくなり10年ぶりに35年前の武藤を。今58歳とすると87年公開の映画撮影時には25ぐらいだったのか。なんでヤングライオン期にいきなり主演しているのかよくわからないが、どうもオーディション代わりに新日の試合を見に来た相米が一目惚れしたらしい。『俺の家の話』における能のはるか前に、プロレスをオペラと融合しようとして失敗した謎の作品があったのだなと改めて。相米があまりプロレスのことをわかってなさそうなのが上手くいかなかった原因なんだろうか。逆水平の張り合いみたいな芝居をさせるの大好きそうなのにやや意外というか。地下闘技場にロープがないのがダメだったのか。武藤が車の屋根に登ったりガードレールでロープワークもどきを披露する場面、ほぼ裸髭面なのに急に赤のダブルのスーツ着るところとかは良かったんだが...。

夜『東京干潟』を。河原で採集したしじみを売った金で酒と猫の餌を買って楽しく暮らしている元社長のホームレス男性を追ったドキュメント。被写体の方が魅力的すぎるのでどこまでが監督の手柄なのかよくわからん部分もあるが、築地、料亭を経て政治家の腹の中に自分のとったしじみが入っていると話す場面や、かつてのバブル期建設現場の思い出話が撮影当時自分たちの生活の場を破壊しつつあったオリンピック特需の建築ラッシュにシームレスにつながってしまう展開には驚いた。多くの猫に餌をやっていることについて話す際に何度も「誰だって生きる権利がある」と語っていたところが忘れがたい。

『はらわたが煮えくりかえる』6章。教育や文化の情動emotionへの影響を探る。構築主義なのか文化をまたぐ普遍性があるのか、の単純な二元論ではなく両者をどう両立させる統一理論を立てられるか、という角度から考察。身体状態の知覚、という意味では全文化共通で、その意味で基礎情動をいくつか設定できる(著者は身体感覚に寄せたもので分類)。それらをどう評価するか、知覚のレベルに様々な形で文化や教育のバイアスがかかっていくという建てつけになっていた。まあ納得。

杉田俊介『人志とたけし』序文と対談二つ。序文で紹介されていた鶴見俊輔吉本興業論はちょっと読んでみたくなった。当時の大衆観をそのまま無批判に今引き継ぐのは厳しいとは思うが、未だに古びていない部分もあるかもしれない。対談ではやはり九龍ジョー氏の指摘に膝打つ部分が多かった。松本がNSC一期生であることと歴史の切断、伝統の否定へ向かう彼の方向性を重ねるのは他の人も言ってることだとは思うが、そこに彼が芸のスポーツ/コンペティション化を様々な形で推進したことの意味も重なるというのは意識したことがなかった。さらにそこと繋がる話として、結局今は場の設定だけやってアガリ状態でニュースネタに対してもあえて予習しないで反射神経だけでなんとかするのがむしろすごい、というスタンスを貫いていることの孕む問題。結局現役でネタやらず舞台に立とうとしないことが一番まずい、というのもまさにその通りだなと。またおそらく本作ってる時期にわりとホットだった話題としてのAマッソと金属バットの炎上についての簡潔なコメントにも完全に同意。まずそもそも芸を必要とする人が少数であり、そうではなく金も落とさず芸そのものも見ていない外野がいろいろ言う流れをどう捉えるか、という問題がある。その前提の上で、Aマッソが記号として差別ネタをフラットに扱ってしまったことの何がまずかったかは、自分が以前スパイク・リーによるタランティーノ批判について考えたあたりとほぼ重なる問題系だろう。ランズマンも褒めてたイングロはセーフだけど例えば昔の黒人いじりと新作のブルースリー表象はアウト、というような。

 

218

起きてちょっと食べてすぐヒューマントラストへ。未体験ゾーン企画で今日までの『ファブリック』を。ぜんっぜんダメだった。もったいぶってるだけで中身空っぽなのに尺が長すぎ。前後半で話変えちゃうなら前半の銀行員の中年女性がらみの細部をいろいろ演出する意味もどこにあるのか謎。せいぜい時流への目配せ程度の効果しかないだろう。ミッドサマーといい、A24には徐々に不信感が募ってきた。

昔から通っている汚い定食屋に行きたかったが、厨房の家族の大半がノーマスクなのを思い出してやめて適当な店でカレー。夜フレンチ出してるからか、前菜がボリュームありうまかったが、カレーが普通。