0410

 機械性とは、このような習得することしかできない物のことであり、けっして、何らかのデザイン(意図)やプログラムの先行性を意味するのではない。むしろ、純粋な意図、志向性の実現とは、収容所的な空間において可能になることなのである。収容所とは、機械性としてのエートスの破壊なのである。人間は機械でなくなることで、人間でも主体でもなくなるのである。機械ではない人間は、ただの生命、生命でしかない生命になる。殺すことと区別し得ない生き延びることである生命に。

 習得されるしかないものによって、私たち人間は、その生の形を築いている。それは、形相の付与者としての制作者=デミウルゴス(職人)をもたないという意味で、誰からも与えられたのではない「かたち」である。「かたち」の分有ということも、ここから考え直さなければならない。人間の行為を、いや、そればかりではなく、人間の文化というものを、制作をモデルとするのではなく、むしろ、学習をこそモデルとして理解しなければならないだろう。ひとは機械となることを学ぶのである。...

田崎英明「生を導く——エートスについて」『無能な者たちの共同体』94)

 

緊急事態宣言下でもはや収容所的な空間と化しつつある実家、「状況が裂いた部屋」で機械となることを学ぶために粛々とこなされる日課の数々。

昼前に起きる。フリーバッグS2、2話。「シャーロック」でモリアーティ役をしていた俳優が演じる新キャラの神父がいい味。

午後別の本をまとめたりするはずがハイデガー『芸術作品の根源』を読み始めてしまう。導入解説やらと講義一回目「物と作品」まで。物、作品、両者の間にあるものとしての道具。ゴッホの靴の絵を褒めるハイデガーのムードが、カヴェルによるエマソン「経験」のWe shall win at the lastのlastは靴底の意味でもあるという謎解釈にまで響いているのだろう。時々無駄に難解な訳語が出てきたところだけ英訳を併読してみるとめちゃくちゃわかりやすい単語が出てきてなんなんだ、となるのが二箇所ほど。当時の致し方ない事情はあったんだろうけどもうちょいなんとかならなかったのか。

夕方、金属バットラジオ聞きつつプランクチャレンジ4日目、プリズナートレーニングからスクワットとプル。やや日が陰ってきたあたりで5キロ。ランニング飛沫リスクの話を目にしたので、人通りの少ない道を意識してみた。

「いだてん」3話。ようやく大河ファンが見てもついていけるようなリズムの回。1,2話目で攻めすぎてかなり視聴者が減ってしまったとしたらもったいなかったような気も。

 

現在、私たちはの多くは、学ぶことは教わることだと思っている。そして、教えるにはそれに相応しい時期、カイロスがあると考えている。それゆえに自分の記憶には日付があり、始まりがあると思っている。だが、教えようという意図のもとに教えても教えられないことがあり、また、そのような意図とは無関係に学んでしまうもの、学ぶしかできないものがある。そのような記憶は、教わったという記憶なしに想起されるのである。人は教わったことしか想起しないのではない。

(田崎「テクネー/ポリス——国民化の時間性について」110)

 

夜は事務メールをいくつか。大学に入りたてのデジタルネイティブ晒し上等な学生たちを相手に、顔出しオンライン講義をしなければならない可能性が現実味を帯びてきたタイミングでたまたまこういうものを読むと元気が出る。

深夜AirpodsAphex Twinの配信を見て寝た。そもそもBluetoothイヤフォンすらはじめて導入したのだが、部屋で立って聴くのにいいなあ(重里)。