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昨日の深夜と今朝で、まだ22だというアマンダ・ゴーマンの朗読などバイデン就任絡みのニュースをいくつかチェック。毎度のことながら左右両側からのあまりにも激しい揺り戻しはいかにもアメリカ、という印象だが、つい先日までめちゃくちゃやってたのが突如リセットされたかのごときリベラル優等生系のスピーチとそれへの絶賛の嵐には若干の違和感を覚えてしまうのも確か。こういう優等生的なものへの反感がどこかでトランプ的なものの台頭につながっているのは明らかなので、自分としてはそっちの危うい方向を常に意識しつつギリギリのところで陰謀論を回避するにはどうするか、などを考えたい。アイン・ランド大好きなシャマランなどにギリギリまで寄り添いながら、陰謀論に落ち込まずフィクションへの信だけはなんとか失わないようにする方法もおそらくあるはず。

昼食べて自転車で渋谷。イメージフォーラムでロズニツァ『国葬』。まあやりたいことはわかるんだけど映画館で観客を拘束してやることなのかは疑問。インスタレーションだったらそんなに嫌な感じは抱かなかったと思うのだが、もしそうだったら最初から最後まで通して観ることもなかっただろう。もちろんあえてしつこく式典での周辺人物たちのスピーチをノーカットで垂れ流すことなんかが大事、ということなんだろうが。『アウステルリッツ』もそうだったけど、プロパガンダとの距離を示さないといけないのもあってか、素材に余計なものを加えたり上手くカットして編集したりしない、というスタンスがかえってイラっとくる印象に帰結してしまっているところがあるようにも思う。同じいわゆる「3ない」でもワイズマンは一瞬も飽きずに観られるのに対し、ロズニツァだと写り込んだ人たちの衣服とかに目がいってしまうのは、画面上の運動とかが特に面白くないからで、かつそれは狙ってやってるところがありそうだけど、観客がそういうものをお芸術としてありがたがる前提で作っているような気も。こちらもわざわざそんなもんを長時間観るほど暇ではないんですが・・・。

神保町へ。微妙に空き時間あったので久々に古本屋街へ。いい本はあるのだが相変わらず値付けがめちゃくちゃ。いつになったらこれではやっていけないと気付くのか。。。神保町シアターで『俺は田舎のプレスリー』。エンパクのLGBTQ展示で紹介されていた直後のタイミングで観た友人が皆絶賛していたので行ってみたが、確かになかなかすごい映画。パリから田舎に帰還するカルーセル麻紀が再びパリへと戻る部分がプロットの中心ではあり、特に先生との家飲みから列車での別れのくだりは撮影含め素晴らしかったが、そこで終わらずに喪失感を埋められない周辺人物の物語がだらだら続くところも珍しい構成で面白い。最終的に願いを実現できる人物は誰もおらず、かといって泣けるほどの破滅に至るわけでもない。冒頭の火事のくだりの反復によって、そうした日常が今後も続いていくことが示唆されてカタルシス抜きで映画が終わっていくことで、奇妙な余韻が残る。

夜、今回も緊急事態になってから見始めた講談の連続物、「天保水滸伝」最後まで。ラストの愛山先生はさすがに決まりまくっていた。配信連続もの二発目にリレーものを持ってきて伯山以外にもスポットライト当たりやすくして、かつ愛山先生の凄みをわかりやすく提示するという伯山TV側の誘導の仕方もうまい。まんまと講談というジャンルそのものにはまりつつある。

 

 

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授業二コマ。プランクだけなんとかやってユーロスペース。小田香『セノーテ』。光の届かない場所に長時間潜って撮影を行う点は前作と共通しているが、映像面では今回は単独で潜っていることによって、前回の労働者たちの動き、特にヘッドライトの振りが適度な偶然性込みで果たしていた役割に当たるものが存在しなかったせいか、そこまで乗り切れなかった。水の中のショットはそこまで多彩なものにはなりようがないからか、8mmの映像と現地の演劇や詩の言葉を重ねることで目先を変えようとしていたように思うが、そちらにもどうも集中できず。ただ、音響については監督自身の呼吸音をがっつり取り込んでいくところなど今回もかなり面白かった。ついでに観たレコードにまつわる限定配信短編の「TUNE」は良かった。やはり音周りの処理にハッとさせられた。

 

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昼、近所のセールで帆布トート買った。ずっと使っていた白いやつが気に入っていたのだが、使い倒しすぎてさすがにやや持って歩きにくい感じになり、かつ個人作で同じものが今は出回っていなそうだったので、わりと近い雰囲気のものを。洗濯できるとのことなので、まあ数年は使えるだろう。

午後天気の悪化とともに何もやる気がなくなってしまい、ひたすら放心。ちょっとだけ筋トレしたが、風呂にも入れず。秘宝ベスト号。今年は特にハリウッド大作映画の公開が本当に少なかったのもあり、新鮮な驚きのあまりないランキングに。未見のもので気になったのは、柳下さん二位の平野勝之の8mm『銀河自転車の夜2019最終版』、真魚さんの選んでいた養蜂業者のドキュメンタリー?『ハニーランド 永遠の谷』ぐらい。

鬱々とした気分に合いそうだったのでニック・ドルナソ『Sabrina』を読み始めた。

 

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スマホの振動で目覚めた気がするが目覚ましではなく、特に連絡は来ていなかった。早く起きたのでちゃんと朝食。昼挟んで『Sabrina』を読み終える。これは確かに評判になるのも納得。なぜ小説ではないのか、と言う辺りは矢倉さんが色々書いていた気がするので読み直さんとだが、自分としてはなぜ実写映画ではないのか、も考えたいなと(いずれ映画化とかもされるのかもしれないが...)。前作確認してないから作画が毎回こうなのかはわからないが、各人物の顔が過剰にシンプルで入れ替え可能な感じに描かれていることと、特に後半の不安が増幅していく展開とがよくマッチしている、というのは一つ言えるように思う。『レゴ・ムービー』で、特に主人公の見かけが入れ替え可能であることが、かえって入れ替え不可能な生の価値を信じることへの距離の遠さから感動を生む構造になっていたことの逆というか。

Alone Together3,4章。AIBOとMy Real Babyという電動赤ちゃんのおもちゃのユーザー実験についての章。機械カニバリズムというより久保氏でいうと『ロボットの人類学』とモロに重なる対象だが、アプローチはやはり微妙に異なる。機械との相互交渉でこれまでの「人間」像とは異質な状況が生まれてくる局面に注目する久保に対し、タークルは精神分析のバックボーンがあることがでかいのか、あくまでも被験者の人間側の立場に焦点を当てながらインタビューを分析していく。そのためか、機械を相手にした喪の感覚の変容を分析した前の2章はもう少し肯定的ニュアンスが強かったのに対し、ここでの子供達がAIBOなどへの対応に困ったら電源を切ってしまう行為については、シンプルに否定的な見解を示しているように見える。愛着やempathyの問題と、コミュニケーションにおけるめんどくさい局面をどう経験するか、の関わり。めんどくささありき、という点から次作に向けてある意味で保守化していく流れになったのかな。まあ自分の子供の反応とかも見てたらそう考えたくなるのはわかるが、やはり久保ーペギオラインのが知的には面白く感じてしまう。