2-2

26

今日も今日とて博論再チェック。なぜこれに気づかなかったのか、という誤植がちらほら...。夜、これを逃したらいつ次があるか、との思いで文芸坐で超絶久しぶりにオールナイト。王兵『死霊魂』。そもそも2005年の素材が中心ということもあるが、原点回帰かつ集大成という印象。『ショアー』と比べてどうという話でもないんだけど、これは世界で他に撮れる人は誰もいなかっただろう。体制側のインタビュイーが一人しか出てこないのは何か意図があったのか気になり滅多に買わないパンフレットも買ってみたが、インタビューによれば単に弾圧していた側は当時58~60年に40代ぐらいの層が中心であり、2005年時点で全員死んでたからという身も蓋もない理由だった。『鉄西区』よりは短いものの8時間半の尺になってしまったのはなぜなのか、と言う点についてはそもそも素材が600時間あり、かつ話を聞けた人のこれは削れないというところを編集するとだいたい30分ぐらいになった、という2点から完全に納得するとともに唖然。今後も残りの素材からスピンオフ的に何本か作られる可能性は高そうだった。どうもほぼ体制側に回収されてしまった感のある去年のジャ・ジャンクーの中国文学ドキュメンタリーあたりとの凄まじい落差に中国の特殊な事情を考えさせられたりも。

 

27

昼過ぎ起きてスロースタート。なんとか夕方ほぼチェックを終える。

夜、バインセオサイゴン二回目。前回頼んでなかったもの中心に。ベトナム式カイピリーニャがマンゴー感強めでなかなか気に入ったのでまた飲みたい。

 

28

午前中は目が覚めても起き上がれず。スーパーボウルのハーフタイムに流れたらしいシャマラン新作の予告観て元気出た。このタイミングで劇場でしかやらないという宣言をあえてしてくるあたりに痺れた。

夕方まで現実逃避でだらだらしてしまう。こういう向き合いたくないなーという感覚ももう最後かと思うと、ある意味感慨深くもある。軽く走って筋トレ長風呂夕食挟みようやく最終チェック。想定問答的なものも少し。

 

29

ぎりぎりになって使用言語がはっきりしないことが発覚して焦ったりもしたが、夕方なんとか口頭試問終了。予定よりかなり長い時間とってもらいありがたし。対面で細部を突っ込まれる機会がこれから何回あるかもわからんし、諸々今後に活かしていきたい。

クソでかタスク終了ということで、さすがにシャンパンといいワインを開けてしまう。

 

210

昼にソイ7でガパオライスとグリーンカレーあいがけ。いい感じ。帰りに寄った子供の頃から使っている近所の大きめの本屋、とうとう四大文芸誌は文藝しか置かなくなった模様。いつの間にか文芸誌のコーナーにはHanadaやらクライテリオンやらが平積みされるようになっていた。ただ重版している文藝はきっちり揃えているあたりから考えても、思想がどうこうというより単に売り上げで判断してそうな気がする。昔なら文藝春秋とか買ってた会社重役系の老人が最近は右寄りの雑誌を買っているのだろうか。もう一つの小さめの店でようやく炎上していた文學界の連載をチェック。作品数と字数の関係がそもそもあまり健全ではない、と改めて感じた。褒めたい作品に字数使いたい、となると他のものに割けるのはツイッター以下の字数、みたいなことになりがちで、その中でディスり芸を披露してやろうとイキると、結果的にどスベりせざるをえなくなる、というような構造があるような気が。個人的には燃えたコメントはめちゃくちゃつまらなかったがそれとは関係なく騒動自体は明らかに編集部に落ち度があると思う。あと同じ号に載っていた九龍ジョーいとうせいこうの対談が良すぎた。割ける時間とカネに限界はあるが、今年はなんとか可能な限り芸能の現場に駆けつけたい。

夕方からわりと強めの二日酔いも、まあ心地よい美酒の名残ということで甘んじて受け入れる。夜は何もする気起きずほぼベッドの上で過ごし、お笑いの動画などひたすら見た。夜見たニューヨークの「ザ・エレクトリカルパレーズ」がなかなかの傑作。振り返りトークの動画で屋敷が、お互いプロレスできるタイミングになったからNSC卒業直後の中途半端なイジリの雪辱も込めて今撮った(大意)と言ったコメントをしていたのも含めて良かった。痛い物事をバカにして笑うこと自体にもかなり忌避感が生まれつつある現在の状況にあって、単に蔑むというよりはむしろ全体としては当時のエレパレ構成員を愛さずにはいられない方向に持っていきつつ、しっかりくそダサいオリジナルソングを散々歌わせたりもする匙加減。去年のM1は順番と準決勝から足した箇所がたまたまはまらなかったのが惜しかったが、今年は頑張ってほしい。

 

2-1

21

2月。夕方までひたすらレポートの採点。『ブックスマート』について好意的な内容が多かった。レポートを課す授業ははじめてだったが、どこまで出題側が枠を用意するかさじ加減がなかなか難しい。

1日なので、という言い訳のもと渋谷へ。『花束みたいな恋をした』を。トイレで会った知人がなぜか真横の席で、野郎二人でノーマスクでポップコーンを食い散らかす糞カップルたちに囲まれながら観る羽目に。途中までは最悪だと思っていたが、後半の予想外の展開で事態は急変、終映後は周辺カップルのリアクションをじっくりと堪能して帰路に。知人が主人公二人がどこの大学かというゲスな視点を持ち出してきて笑ってしまったが、確かにそのぐらいは裏設定で決めてそうな感じもした。将来的には注のない下流中堅大学生バージョンの『なんとなく、クリスタル』みたいな作品として位置付けられることになるのだろうか。

劇中の会話に登場する膨大な固有名詞についてtwitterで調べたり話したり。坂元ファンを選んだのかは不明だが、それっぽい文科系若者のインスタアカウントを参照して選出したものらしい。ラストの世代間遷移へのフリとしてはベタながら機能していたような気はした。ただ同時にある種のサブカル趣味の人の最大公約数を取りに行った結果として、ちょっとステレオタイプな感じにはなってしまうよなとも。

映画館の固有名すらバンバン出てくる一方で、なぜか映画監督の名前は出てこないのが面白いなと感じていたが、押井守、宮崎・新海とアニメ監督は普通に出てきていたのを完全に忘れていた。海の場面でスマホで自分の足元を撮影するところやヒロインが影響を受けたブログがはてなだったりとかも、似た意味の時代風俗として笑える演出。見た範囲での坂元脚本ドラマでは固有名に頼っていた記憶は一切ないので、「ANONE」のスマホ周辺やネットカフェ環境の取り込みなどと同様、同時代性を引き出すためのツールの一つとして今回注目してみた、というところか。なかでもパズドラのくだりなんかはまあ上手いなと思った。はてなのくだりではなんとなく雨宮まみや、さらに遡って二階堂奥歯とかを思い出したりも。その他、原作絡みで実名にできなかったのかもしれないが、『わが星』は行ったなあ、とか。言及されない固有名でいうと濱口竜介への目配せはちょっと気になった。主人公の名前が麦(むぎ)、多摩川沿い散歩は『親密さ』を、同棲アパートベランダから川を眺める場面は『寝ても覚めても』を思わせるし、主人公カップルの関係性は『寝ても覚めても』及び逆『PASSION』では、などなど。タイトル的に本作と特に関係が深そうな坂元脚本の「最高の離婚」を見てみたくなった。

その他、ヒロインの髪型変遷やオダギリジョーとのくだりなど、省略しつつほのかにDVや浮気の可能性を仄めかす演出には好感を持った。あと、猫をめぐるじゃんけんで(たしか)パーで菅田が勝つさりげなさ。

国がどうしようもないせいでついつい来年度新しく始まる購読の教科書をレセムの『ゼイリブ』論にしてしまう。

 

22

成績付け、アンケート、来年度シラバスなどの雑務を全てなんとか終える。疲れた。

夕方走りに行った時の思いつきで、今年度コメディ映画を扱ってあまりうまくいかなかった授業を来年度は大統領スピーチに変更。全部就任演説で揃えようかとも思ったが、レーガン、ブッシュあたりは戦争がらみのものにしてみた。

 

23

どうしてもやる気が出ずベッドから出られず長時間だらだら。昼過ぎから文芸坐。見逃していた昨年のブラムハウス映画二本。どちらも単に時流におもねるわけではなく、今可能な暴力表現と本気で向き合おうとする工夫が随所に見られて良かった。

『透明人間』、ラストではっきりと主人公が狂っていないことを示してしまうのは、時代の要請を考慮すれば仕方ないとはいえちょっともったいなかった気がするが、最後に旦那の家に行く手前までは随所に唸らされた。まずはDV男の恐怖を透明人間と重ねるアイディアがとにかくはまっていた。『ミッドサマー』とかの滑り具合と比べると雲泥の差。逃げ込んだ家が舞台になってから時折透明旦那目線のエンプティショットを挟んでいくあたりは上手いし、朝飯が燃える無人のキッチンから消火器で消すまでの流れなんかは特にぐっときた。ゆっくりしたパンで無人の空間を捉えるショットを折に触れて挟む演出も、まあよくあるやつではあるが、もしかしたらここに?という緊張感を超安値でうまく醸し出してるなあ、と。『ヴィジット』あたりと同様に屋内シーンメインで進む中で、目先を変えながらサスペンスを維持しつつ笑えもするというのは良いバランス。2時間超えちゃってるのはどうなのかとも思ったが、特に弛緩しているとは思わず。兄貴がらみの場面はもう少し削れたかもしれないが。病院での旦那VS警備員のバトル場面や逃げた先の家での夫婦喧嘩場面では、旦那側が透明を保つことで割とコミカルになってていい感じだと思ったが、文句言ってた某先輩は透明同士で戦って欲しかったと書いていた。それだと確かにバカバカしくて笑えるが、ヴァーホーヴェン版やシャマランのノリになってしまうような...。徹底して決定的瞬間は見せない、という演出にも非常に好感を持ったが、その方向性ならやはり最後もう一捻りしてやっぱりこいつ狂ってたのか?という線を残して両義的なラストにして欲しかったような気もする。その他、消火器や脚立など小道具の活かし方、さりげない過去作オマージュももなかなか気が利いていた。

『ザ・ハント』、事前情報ゼロで観たが最高だった。ホラーとお笑いだけは常に現在進行形で追わないといかんな、と改めて。とにかく今のSNSやネット周辺に渦巻く悪意の取り入れ方が痛快。ネタがベタに読まれてフェイクニュースとして拡散されるところから始まる悪意の連鎖。現在進行形のサブカル大御所たちの無益な喧嘩なども想起して笑ってしまった。レビューサイトやトランプ周辺からの評判は散々だったようだが、2020年時点のバランスとしてアウトすれすれを絶妙に突いたからこその強い反応だったのでは、という気がする。ちゃんと観れば単なるラストベルト貧乏白人批判ではなく、むしろそういったラベルを貼りつつも表面では耳触りの良いことしか言わないリベラル層により鋭い刃を向けていることは誰でもわかると思うが、まあ特にトランプとかが怒ってたのは設定とか予告編だけの印象からだろう。映画全体の内容からすると誤解に基づいて批判されて上映中止とかになってるのも興行としての結果を無視すればむしろ美味しいというか、それこそ作中の構図そのまんまだよな、と。序盤のモブキャラたちの死に方、リベラルな思想に殉じて死んでいくバカな女キャラ、ボスが自分の間違いを決して認めないところなど、ツボに入ったところは多数。ボスだけ有名女優だからと顔出しを引っ張るのとか、最後に動物農場パロディをめぐる説明的な会話を入れちゃうところとかは全く乗れなかったが、全体としてはお見事という印象。何より、どんな人物をどういう設定なら後ろめたさ抜きで画面上で惨殺できるか、から逆算しているのが明らかなのが潔くて良い。シャマランの恩人である時点でジェイソン・ブラムのことはずっと信用しているが、ブラムハウスの層の厚さに驚いたので、今後はA24なんか目じゃないぞとばかりに推していきたい。

ホラーやコメディと情動の関係は小説・映画双方で長い時間かけていろいろ考えていきたいところ。とりあえず先日から人文系に寄りすぎない良書として以前に戸田山『恐怖の哲学』でノエル・キャロル本と並んでかなりがっつり紹介されていたプリンツ『はらわたが煮えくりかえる』を読み始めたところだが、様々な対立する説を一つずつつぶしていく感じの議論が続くのでかなり読みづ(×ず)らい。

 

24

超重い腰を上げようやく博論見直し2章分。自分史上一番校正したはずなのに細かいミスが結構見つかってしまう。人間の目は不思議。

夕方ユーロスペース。今更になって佐藤真『阿賀に生きる』をはじめて観た。圧巻。舟大工遠藤さんの表情の変遷だけとっても凄まじかった。撮影小林茂さんの感覚が確かに小森さんの『息の跡』や『空に聞く』にまで繋がっていることがよくわかった清田さんとのトーク含め、ある意味『日本に生きる』に近い状況下で今観られてよかった。自分たちは裁判ドキュメンタリーにするより生活の機微を捉える方にフォーカスするべき、という確信から帰結する、かっこよすぎる餅つき場面の重要性。水俣病との関係がほとんどない家での食事場面や小さな揉め事の場面の方がかえって強く脳裏に刻みつけられたりするという。単に的確というのとも違うんだけど、カメラ位置やら被写体との距離感やらにハッとさせられる場面だらけだった。特に遠藤さんの船周りと長谷川さん?の田んぼのところ。進水式の撮り方はそっちからなのか、とか。トークのお二人も観るたびに新しい発見があると言っていたが、ニュープリントフィルムで観られる機会にはまた駆けつけたい。

夜、クドカンのドラマ『俺の家の話』二話録画で。思った以上にプロレスはメインプロットとまだまだ関わってくる模様。すご。対老人詐欺師と見せかけて戸田恵梨香が誠実に仕事して対価もらってるだけっぽい展開になったのにはさすがに驚愕。能、プロレス業界や遺産相続に関わるシビアなカネの話ばかりか、介護の低賃金という問題にまで切り込んでおいて完全にコメディとして成立してもいる。奇跡的なバランス感覚。

 

25

完全に生活の一部になっていた金属バットのラジオ、更新が途絶えると落ち着かない。

今日は博論2章分と1セクションで力尽きる。どうも1日に集中して確認できる分量には限りがある模様。なかなか派手な改行ミスや引用ミスをやらかしており冷や汗。余白とか直していた時にずれたのかと思うが、さすがに我が事ながらびっくり。若干細部忘れた状態で読み直してみて、内容的にはうわーおもしれーとまではいかないものの、まあそこまで最悪というわけでもないか、とは思えたので良かった。

夕方走って筋トレして長風呂したらやはり体調はいい。4月からは対面だらけで嫌でも歩数戻りそうだが、3月までどう運動量確保するかは考えた方がいいのか。夜、現実逃避で久しぶりに日記。とりあえず2月入ってからのものを。

 

121

昨日の深夜と今朝で、まだ22だというアマンダ・ゴーマンの朗読などバイデン就任絡みのニュースをいくつかチェック。毎度のことながら左右両側からのあまりにも激しい揺り戻しはいかにもアメリカ、という印象だが、つい先日までめちゃくちゃやってたのが突如リセットされたかのごときリベラル優等生系のスピーチとそれへの絶賛の嵐には若干の違和感を覚えてしまうのも確か。こういう優等生的なものへの反感がどこかでトランプ的なものの台頭につながっているのは明らかなので、自分としてはそっちの危うい方向を常に意識しつつギリギリのところで陰謀論を回避するにはどうするか、などを考えたい。アイン・ランド大好きなシャマランなどにギリギリまで寄り添いながら、陰謀論に落ち込まずフィクションへの信だけはなんとか失わないようにする方法もおそらくあるはず。

昼食べて自転車で渋谷。イメージフォーラムでロズニツァ『国葬』。まあやりたいことはわかるんだけど映画館で観客を拘束してやることなのかは疑問。インスタレーションだったらそんなに嫌な感じは抱かなかったと思うのだが、もしそうだったら最初から最後まで通して観ることもなかっただろう。もちろんあえてしつこく式典での周辺人物たちのスピーチをノーカットで垂れ流すことなんかが大事、ということなんだろうが。『アウステルリッツ』もそうだったけど、プロパガンダとの距離を示さないといけないのもあってか、素材に余計なものを加えたり上手くカットして編集したりしない、というスタンスがかえってイラっとくる印象に帰結してしまっているところがあるようにも思う。同じいわゆる「3ない」でもワイズマンは一瞬も飽きずに観られるのに対し、ロズニツァだと写り込んだ人たちの衣服とかに目がいってしまうのは、画面上の運動とかが特に面白くないからで、かつそれは狙ってやってるところがありそうだけど、観客がそういうものをお芸術としてありがたがる前提で作っているような気も。こちらもわざわざそんなもんを長時間観るほど暇ではないんですが・・・。

神保町へ。微妙に空き時間あったので久々に古本屋街へ。いい本はあるのだが相変わらず値付けがめちゃくちゃ。いつになったらこれではやっていけないと気付くのか。。。神保町シアターで『俺は田舎のプレスリー』。エンパクのLGBTQ展示で紹介されていた直後のタイミングで観た友人が皆絶賛していたので行ってみたが、確かになかなかすごい映画。パリから田舎に帰還するカルーセル麻紀が再びパリへと戻る部分がプロットの中心ではあり、特に先生との家飲みから列車での別れのくだりは撮影含め素晴らしかったが、そこで終わらずに喪失感を埋められない周辺人物の物語がだらだら続くところも珍しい構成で面白い。最終的に願いを実現できる人物は誰もおらず、かといって泣けるほどの破滅に至るわけでもない。冒頭の火事のくだりの反復によって、そうした日常が今後も続いていくことが示唆されてカタルシス抜きで映画が終わっていくことで、奇妙な余韻が残る。

夜、今回も緊急事態になってから見始めた講談の連続物、「天保水滸伝」最後まで。ラストの愛山先生はさすがに決まりまくっていた。配信連続もの二発目にリレーものを持ってきて伯山以外にもスポットライト当たりやすくして、かつ愛山先生の凄みをわかりやすく提示するという伯山TV側の誘導の仕方もうまい。まんまと講談というジャンルそのものにはまりつつある。

 

 

122

授業二コマ。プランクだけなんとかやってユーロスペース。小田香『セノーテ』。光の届かない場所に長時間潜って撮影を行う点は前作と共通しているが、映像面では今回は単独で潜っていることによって、前回の労働者たちの動き、特にヘッドライトの振りが適度な偶然性込みで果たしていた役割に当たるものが存在しなかったせいか、そこまで乗り切れなかった。水の中のショットはそこまで多彩なものにはなりようがないからか、8mmの映像と現地の演劇や詩の言葉を重ねることで目先を変えようとしていたように思うが、そちらにもどうも集中できず。ただ、音響については監督自身の呼吸音をがっつり取り込んでいくところなど今回もかなり面白かった。ついでに観たレコードにまつわる限定配信短編の「TUNE」は良かった。やはり音周りの処理にハッとさせられた。

 

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昼、近所のセールで帆布トート買った。ずっと使っていた白いやつが気に入っていたのだが、使い倒しすぎてさすがにやや持って歩きにくい感じになり、かつ個人作で同じものが今は出回っていなそうだったので、わりと近い雰囲気のものを。洗濯できるとのことなので、まあ数年は使えるだろう。

午後天気の悪化とともに何もやる気がなくなってしまい、ひたすら放心。ちょっとだけ筋トレしたが、風呂にも入れず。秘宝ベスト号。今年は特にハリウッド大作映画の公開が本当に少なかったのもあり、新鮮な驚きのあまりないランキングに。未見のもので気になったのは、柳下さん二位の平野勝之の8mm『銀河自転車の夜2019最終版』、真魚さんの選んでいた養蜂業者のドキュメンタリー?『ハニーランド 永遠の谷』ぐらい。

鬱々とした気分に合いそうだったのでニック・ドルナソ『Sabrina』を読み始めた。

 

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スマホの振動で目覚めた気がするが目覚ましではなく、特に連絡は来ていなかった。早く起きたのでちゃんと朝食。昼挟んで『Sabrina』を読み終える。これは確かに評判になるのも納得。なぜ小説ではないのか、と言う辺りは矢倉さんが色々書いていた気がするので読み直さんとだが、自分としてはなぜ実写映画ではないのか、も考えたいなと(いずれ映画化とかもされるのかもしれないが...)。前作確認してないから作画が毎回こうなのかはわからないが、各人物の顔が過剰にシンプルで入れ替え可能な感じに描かれていることと、特に後半の不安が増幅していく展開とがよくマッチしている、というのは一つ言えるように思う。『レゴ・ムービー』で、特に主人公の見かけが入れ替え可能であることが、かえって入れ替え不可能な生の価値を信じることへの距離の遠さから感動を生む構造になっていたことの逆というか。

Alone Together3,4章。AIBOとMy Real Babyという電動赤ちゃんのおもちゃのユーザー実験についての章。機械カニバリズムというより久保氏でいうと『ロボットの人類学』とモロに重なる対象だが、アプローチはやはり微妙に異なる。機械との相互交渉でこれまでの「人間」像とは異質な状況が生まれてくる局面に注目する久保に対し、タークルは精神分析のバックボーンがあることがでかいのか、あくまでも被験者の人間側の立場に焦点を当てながらインタビューを分析していく。そのためか、機械を相手にした喪の感覚の変容を分析した前の2章はもう少し肯定的ニュアンスが強かったのに対し、ここでの子供達がAIBOなどへの対応に困ったら電源を切ってしまう行為については、シンプルに否定的な見解を示しているように見える。愛着やempathyの問題と、コミュニケーションにおけるめんどくさい局面をどう経験するか、の関わり。めんどくささありき、という点から次作に向けてある意味で保守化していく流れになったのかな。まあ自分の子供の反応とかも見てたらそう考えたくなるのはわかるが、やはり久保ーペギオラインのが知的には面白く感じてしまう。

 

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午前追試小テスト一つ。午後はラジオいろいろ流しながらだらだら採点。半年完全に放置していたやつもなんとかして、とりあえず6コマ中2コマほぼ終了。プランクとスクワット。夕方近所で立ち読み。樫村論考はなぜかこのタイミングでタルコフスキー論だったので作品再見してから読むことに。

高橋ヨシキのシネマストリップ』からヴァーホーヴェンのハリウッド三作のところを。『トータル・リコール』はもともとクローネンバーグが監督する可能性があり、いろいろポシャってた企画をヴァーホーヴェンの『ロボコップ』に感動したシュワちゃんが彼に持ち込んで完成に至ったらしい。いい話すぎる。同作の徹底した二重性をわかりやすく解説しているくだりには膝打ち。ちゃんと読み込めてない層にも受容されたことで儲かったっぽいのはまあ納得。初期オランダ時代を全然観られていないのでゆっくりつぶしていきたい。

蓮實重彦「零度の論文作法——感動の瀰漫と文脈の貧困化に逆らって」。鈴木一誌によるインタビュー。書き始めるまでにどれだけ寄り道するかが大事、みたいな話はめちゃくちゃ目新しいわけではないもののまあ納得。PC、ポスコロ云々が過剰に重視される傾向に対して、「文脈間の階級闘争」の視点がないところがダメ、と切って捨てているところに一番膝打った。http://jun-jun1965.hatenablog.com/entry/20171121ここで猫猫先生も書いていた「学問とは何か」という問いについては、サイードを主な仮想敵としてお行儀のよい「文学研究」をディスりつつも、最近もいくつか博士論文の査読はしてまっせという点を強調しており、ダブスタっぽさはあった。

寝る前にケリー・ライカート特集延長戦で『ナイト・スリーパーズ Night Moves』。無料今月までだったので慌てて観た。結局配信も消えるなどのきっかけがないと観ないというのは我が事ながら皮肉。例によって爆破で全てが引っくり返るはずもなく、Old Joyにも近い微妙な気まずさをはらんだ時間がミッション達成後も続く。珍しく終盤は彼女にしては劇的な展開となるが、なぜか量販店でバイト始めようとする場面でやっぱり背後が気になる、からの店内鏡ショットで終了、という唐突な締め方は非常に良かった。冒頭のスプリンクラーショットから、ところどころ挟まれるロングショットなど撮影は終始決まっていてかっこよし。『ソーシャル・ネットワーク』でザッカーバーグ役やってたジェシー・アイゼンバーグの悩み多き二宮くんみたいな顔も、夢見がちお嬢様のダコタ・ファニングも、発言も行動も適当すぎていちいちアイゼンバーグ演じるジョシュをピリつかせるピーター・サースガードもそれぞれはまっていた。どう考えてもライカート作品のアンチ物語、アンチクライマックス要素に最も貢献していると思しき、かなり多くのライカート作品で原作と脚本に関わっているJon Raymond の小説は今年どっかでまとめて読みたい。

 

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昼過ぎから自転車で渋谷。

ヒューマントラストでキム・チョヒ『チャンシルさんには福が多いね』。冒頭の初期ホン・サンス作品をあからさまに意識した飲み会場面からの映画監督=ホン・サンス急死という展開には思わずガッツポーズ。当然彼との関係を読み込まれることは承知の上で、父殺しというほど劇的ではない喪失から緩やかな再生へと至る物語がとぼけたユーモアとともに展開されていくところも良かったし、監督が死んで女性プロデューサーが主役、恋愛もそこまでメイン要素にはならず、というあたりで初期ホン・サンス的なものを期待させる冒頭からの予測を巧妙にすかしつつ、結局彼女自身のキャリアを色濃く反映した作品を撮っているという意味では極めてホン・サンス的でもあるというバランスの取り方も非常に好みだった。ただ、後半主人公の重要な変化をかなり言葉で説明してしまっていたのだけはいただけなかった。月永さんがレビューで書かれていた「自分探しの物語ではなく自分のスタイルを探す物語」(大意)という指摘はその通りだと思うのだが、それを大家が家の中に入れた花との重ね合わせや、自らのこれからをめぐる独白で表現してしまうのは野暮だろう。前半の木の実とか近所の坂を登ったところに出てくるよくわからん健康器具とかの場面は良かったのだが。。。

少し時間が開く間にバイト先で源泉徴収受け取り、セール冷やかしなど。戻ってテレンス・マリック『ソング・トゥ・ソング』。『名もなき生涯』はもう少し別のテーマに踏み込んでいたが、この映画は時系列的には二作前のTo the Wonder、一つ前のKnight of Cupsと構造的に全く同じ話でさすがに笑ってしまった。まあキリスト教のことを四六時中考えていてカヴェル先生の教えが忘れられないんだろうけど、さすがにメンヘラビッチだった私も目が覚めたわ、これまで音楽業界の華やかさに目がくらんでいた俺もやっぱり肉体労働からやってくっしょ!みたいなラストでこれが現在進行形の再婚喜劇です、と強弁するのは舐めすぎだと思った。まあ、この辺の年寄りが急に日和って多様性が、とか言い出すよりはアフリカ系の起用法も露骨に差別的で、もうアップデートとかする気は毛頭ないっす、といった開き直りぶりにはうけるーとは感じたが。散々出てくるフェスはコーチェラかなんかなのか。映画がルベツキが撮ったハードコアバンドのモッシュピットで始まるのはこれは何を観させられているんだという感じで最高だったが、久々に観たのにあの撮り方には一時間以内に完全に飽きていた。数多くのカメオ勢の中ではなぜかパティスミスだけ結構大事な役を与えられていた。あと架空バンドでヴァル・キルマーが捕まるくだりが意味不明で笑った。ゴズリングは期待に反してベンアフよりだいぶ顔が映っていた。

夜は九龍ジョー編集のDidion2号「落語の友達」を。適当にいくつかつまもうと思ったら予想以上に面白く全記事読み終えてしまう。当たり前だが寄席でつながる友達の感覚はこの雑誌で補助線が引かれていると言っていいライブハウスにせよ、個人的に身近に感じる名画座や映画館にせよ似たようなもんで、しかも落語ファン界隈にはそんなにうざいシネフィルみたいな人もいないのか、皆さん楽しそうな筆致で読んでいても楽しかった。有名人よりも全然知らない方の寄稿の方が面白かったりするあたりも含め、最近の雑誌にはほとんど存在しない「雑」の要素が随所に感じられる一冊だった。これはストリップ特集も買うか。

 

1/20

朝近所の工事と思しきドリル音で予定より早く叩き起こされる。

午前はTurkleのAlone Together2章まで。Introではテクノロジー万歳に近かった以前の著作から徐々に悲観的になっていく流れがまとめられる。以前読んだ次の本ではたまにはスマホの電源切ろうみたいな方向になっていた記憶があるので、この本が過渡期という感じなのか。1、2章は80sの自らの経験から書き起こして、自分の子供のエピソードや文学や映画の例も挟みつつ、たまごっち、ファービーあたりに至るロボペットの歴史を振り返る。知らなかったがもともと精神分析畑にいたらしく、ありがちだが フロイトの「不気味なもの」の概念をこれらのロボットに当てはめていた。電源を切ることの位置をめぐる議論や子供たちのリセット拒否の事例、あるいはたまごっちの墓のエピソードなどに子供なりの「喪の作業」の萌芽を見出し、たまごっちやファービーの「死」をどう捉えるか考えている箇所がここまででは面白い。意外にも『機械カニバリズム』とかと重なりそうな問題系。

昼食後、ベッドの上でジョー・ブスケ『傷と出来事』を読み終える。なぜか半年以上中断していたのを宣言開始を機にまた再開。ほとんどを緊急事態宣言下のベッドの上で読んだことになる。特にこの本については読むのにふさわしいタイミング、場所、時間があったと思う。あらゆる文化が傷自慢大会に近くなってきている現在こそ読まれるべき本のような気もする。

自転車でヴェーラヘ。ジャック・ベッケルエドワールとキャロリーヌ』(1951)。ただ痴話喧嘩してるだけなのに滅法面白い。特にパーティーの準備中にもめてるだけの前半の充実ぶりがすごい。いかにも気の強そうなアンヌ・ヴェルノンがとにかく可愛い。

ジョージ・キューカー『男装 Sylvia Scarlett』。キャサリン・ヘプバーンデヴィッド・ボウイかと思う男装が最高。親父が出っ歯のお手伝いさんに惚れた挙句嫉妬に狂っていくくだりなど、サブプロットがガチャガチャしすぎで後半はわけわからん展開だったが、コスプレが楽しかったのでまあよし。映画終えたところで久々にお仕事の依頼。ようやくちょっとやる気出てきた。

2ヶ月半ぐらいほぼ何も書いていなかったが、そろそろリハビリを開始ということで超絶今更の2019年ベストと日記を書き始めた。と言いつつ一旦書き出してしまうと計4300字ぐらいになっており、例によって加減を知らないのはなんとかしたい。

とりあえず宣言中は書く気だがいつまで続くか。

 

0510

なかなか寝付けず寝たと思ったら目覚まし三つかけてたのに二度寝で12時起き...。起きて早々、検察庁法をめぐるあれこれでしばらくtwitterを徘徊してしまう。

韓国の蓮實インタビュー翻訳連載3回目まで。まあ聞いたことある話多めだったが、40s後半から50sのハリウッドのプロデューサー(ドーリ・シャリー、キング兄弟)のレトロスペクティヴやりたいという話はぜひシネマヴェーラあたりで早めに動いてほしい。そもそもいつ映画館再開できるんだという状況ではあるが。

ミメーシス今日も二章分。

母の日ということで近所のフレンチビストロでテイクアウトして夕食。その流れで軽く飲んだのが良くなかったのか、その後廃人のようにだらだらしてしまい論文ほぼ進まず。切り替えて休むのは下手だが結果的に週に1日は必ず使い物にならない日が出てくる。女性の筋トレ動画を相当な時間見た記憶はあるが、外に出ず筋トレもさぼったので運動もなし。

かろうじてシャワーだけなんとか浴びてビール飲みつつ加藤義一「痴漢電車 びんかん指先案内人」。城定脚本作。加藤監督の汁に対する異様なこだわりは随所に感じられたが、城定監督作に比べて画面の弱さと俳優陣のダメぶりが目立つ出来。とはいえ柳下さんが書いていたが痴漢の奥さん役の人はよかった。ほうれん草のおひたしが得意料理の。

お互い顔すら見ない痴漢の相互性を軸に据えた脚本はチャレンジング。触れ合った二人はその交流から勇気を得るも、直接結ばれることなくそれぞれの「運命の人」との関係へと戻っていく。わざわざ欲望と欲動の差が、とか考えるのはさすがに野暮なんだが、とりわけ男が痴漢した女をモデルにした小説がきっかけで出戻った妻を嘘をついて迎え入れるところは素晴らしかった。こういう再婚喜劇はキリスト教圏ではそんなに撮られていないのでは。つかの間の関係を築いた二人が最後に偶然向かいあう場所の選択にも納得。電車で出会った二人はやはり踏切で再会しなければならない。

 

0509

10時起床。午前中はベランダで日記とか。この時間で論文書くサイクルにせんとくん

昼食べつつTedでJ.D.Vance。ヒルビリー・エレジー前夜というか、自分がいかにやばい毒親と地元の環境から抜け出したかという話。

『ミメーシス』今日も二章分。ユダヤ人であるアウエルバッハがWWII中に移住先のトルコで書いていたという背景が有名だが、戦争中に馴染みのない場所に暮らしていてこういう本が書けるというのは、緊急事態下で何ができるかという話ともちょっとつなげて考えてしまいたくなる。三章はアンミアヌス、ヒエロニュムス、アウグスティヌス。アンミアヌスでは人間らしい感情や合理性が後退、代わって怪奇さ、不気味さ、悲壮さが浮上101-2。ヒエロニュムスは現世否定、暗澹、陰鬱122。アウグスティヌスの引用では、「彼の魂は汝(神)に依り頼むべきであったのに己れに依り頼んだためにそれだけ弱かったのである」125というくだりがまさにself-relianceの逆で興味深い。キリスト教の希望と文体。

キリストの言動を伝える文体は、古代の意味からは洗練された文体ではなく「漁夫の言葉」(sermo piscatorius)に他ならない。しかし最も優れた修辞的・悲劇的な文学作品にもまして、感動的であり、強い印象を与える言葉が記されている。なかでももっとも感動的なのはキリスト受難の物語である。王者の中の王者ともいうべき人b痛が賤しい犯罪者として扱われ、嘲笑され、唾を吐きかけられ、鞭打たれて十字架にかけられた物語が人々の心を強く捉えるようになるや否や、この物語は様式分化の美学を完全に打破してしまったのである。すなわち、その結果として、日常生活を蔑視することなく、感覚的な現実の事柄を描き、醜く無様な事、肉体上の欠陥さえもどしどし記述することを躊躇しない、新しい型の荘重体が発生することになった。あるいは反対の言い方をするならば、新しい謙抑体が生じたのである。本来なら、もっぱら喜劇や諷刺文を書くのにふさわしいような低俗な文体、「謙抑体」(sermo humilis)がいまや本来の範囲を越えて、もっとも深みのある、またもっとも高貴な作品、高尚な永遠の作品の中にも侵入してきたのである。132-3

終盤はアウグスティヌスに「比喩形象」、神に収斂する垂直の関係を読む旧約ー新約からの流れ。4章はグレゴリウス。古代後期の作家たちに見られた文体の硬化、修辞上の工夫の行き過ぎ、不自然でわざとらしい緊張しすぎた陰鬱な雰囲気etcの前景化を受けて、彼は暴行、殺人が日常茶飯事である環境に生きながら、事物と直接的な関係を結ぶ感覚的現実を表す口語としての地方語を用いて、洗練とは無縁でも実際的で素朴な溌剌さとともに恐ろしい出来事を伝えた、と。

今日はビックカメラに用があったので走るコースを変えて渋谷へ。思ったより普通に人がいたのでこっちのコースはやはり使えないか。店舗入口での検温を初体験。帰りに見えた代官山方面の飲食店も各店大変そうだった。今日はECD聴きつつ5km。これからうざい無茶振りメールにはひたすらこの曲の歌詞を返信していきたい気持ちになった。「関係ねーって言ってやれ あいにくご期待にそえません」、「もうちょいうまくできんだろ 頭使え 頭使え」。

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夕食時はピンカーのTed二本。暴力をめぐる通念をひっくり返す話は、統計マジックめいた部分もあるものの、暗いニュースばかりで気が滅入っていそうな大学生に見せるにはいいかもしれない。あとは頭の回転が異様に速いのがよく伝わってくる話し方だった。減速して観るよう勧めたほうが良さそう。

プランク180秒まできたがこれは結構きつい。そろそろ限界のような。論文ようやくmenu1/4まで。寝る前に城定『新高校教師 ひと夏の思い出』(2004)。ベタに徹した時の職人芸がフルに発揮された最初の例か。美しさがどうかしている小沢菜穂に起きる変化は、様々な小道具の運動とリンク。一度は直った扇風機がまた壊れること、バウンドし続けるバレーボールがいずれ止まることは彼女の意思に関わりなく起こるが、くすねたハーモニカを元に戻すこと、薬屋を殴って彼にもらったハイヒールの踵が壊れることは彼女自らの意思によって起こる。前者から後者への変化は、高校時代に果たせなかった告白を五年越しで果たすことで導かれる。この告白を実現するためには、つかの間の不倫関係がどうしても必要だった。うますぎる。同じ男への愛を共有するツンデレ不良女子とのシスターフッドが生まれていく過程も感動的。小沢によって万引きへの逃避から引き戻された彼女もまた、神代を思わせる海辺の自転車訓練を経て成長していく。小沢との距離が縮まる場面はまさかの海辺小津構図。なんなんだ。盗撮男子やパン屋の二人まで含めてなんらかの前向きな前進へと至るご都合主義的な展開は、ラストですべて完璧に回収。かつての関係の象徴としてのピアノ曲が最後には惜別の歌へと変わり、結ばれることではなく別れが成長の徴となる点まで含めてお見事。

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朝、昼食事中にTed。シェリー・タークルとロクサーヌ・ゲイ。どっちも簡潔にまとまってるし笑いもとってるしいい感じ。特にゲイはスタンダップ・コメディアンも真っ青なレベルで受けまくっていた。さすが。

『感性的なもののパルタージュ』2章。そんなに噛み砕いて理解できている気はしないが面白い。主に絵画を例に、ミメーシスを規範として受け取るのではなく、その「外への跳躍」を「形象化の拒否」とは異なる方向から再検討する。

ミメーシスの外への跳躍は、形象化の拒否では全くない。そして、その跳躍の端緒となる契機はしばしば<リアリズム>と呼ばれたが、これは類似の重視を意味するのでは毛頭なく、類似が機能していた枠組みの破壊を意味するのである。...芸術の美的=感性論的体制匂いては、芸術の未来、すなわち、それが現在において芸術に非ざるものとのあいだにもつ隔たりは、絶えず過去を舞台に乗せ直すのである。27

特に名指しはされていなかったがメディウム・スペシフィシティの議論が明らかに踏まえられている感。あとこの本だとアリストテレスとリクールの議論が主な前提っぽいが、ミメーシスといえばこれをそろそろ読まんと、ということで午後はアウエルバッハ『ミメーシス』を二章分。一章はホメロスvs旧約。

相対立するこれら二つの文体は、二つの基本型を表している。すなわち、一方は、すべてを入念に形象化する描写、均一な照明、隙間のない結合、自由な発言、奥行きのない前景、単純明瞭な一義性、歴史的発展や人間的・問題的な要素の乏しさ、という特色を持っており、もう一方は、光と影の際立った対照、断続性、表現されないものを暗示する力、背景をそなえた特性、意味の多様さと解釈の必要、世界史的要求、歴史の展開に関する概念の形成、問題性への深化、などの特色を持っている。51-2

ひとまず押さえるべきは表層ー深層の対立なんだろうけど、 前者(ホメロスのリアリズム)の特徴はパンフォーカスの映画とか、アイン・ランド⇨俺Tsueeeとかに繋がっていく要素すらあるような。二章はペトロニウスタキトゥスvs新約。ここで早くもtypology思想の根幹が。

聖書の内容全体が解釈次第でどうにでもなり、しばしば読者または聴衆の注意を感覚的事象から意味のほうへ向けておいて、そこに語られている事柄をその感覚的基底から遠く離してしまうようなことが行われた。従って事象の具象性が意味の厚い網の目にとらえられて硬直し、死んでしまう危険があった。...しかしこの二つの事件が、...といったような説法で、たがいに関連づけられて解釈されると、感覚的な事象は比喩的な意味に圧倒されて消え失せてしまう。 93-4

 現状、一応作者の意図をベースに書かれていることもあり、思ったよりは素朴な印象。各作者の関心以上に何に無関心だったか、がむしろ重要な局面も。ホメロスタキトゥスにおける階級意識の不在とか。

昨日腹筋したからかプランク150秒ですでにきつい。からの今日も漢聴きつつ5km。3曲に一回ぐらいは吸ってまーす!とリリックで宣言していて笑ってしまう。「需要と供給 年中無休でポリスとガンジャをうまく巻く」(My Money Long)。

夕食時はダマシオのTed観たが、これは文系の学部生だとちんぷんかんぷんな人も多いかもしれない。夜論文ちょっぴり進めたあたりで大量の謎事務連絡が来襲。そもそも授業開始日を勘違いしていたものすらあることが発覚したりで狼狽。雑談電話しつつとりあえず対応したが、先が思いやられる。

寝る前にビール一本だけ投入して城定『若妻痴漢遊戯 それでも二人は。』。痴漢という題材にもかかわらず女性エンパワー要素に満ちた再婚喜劇の秀作。バッド・フェミニストがらみの例で紹介したいぐらい。痴漢といえば電車だからか?遠景に電車を写しこむ構図や踏切演出には結構凝っていたような。「いきなり故障した」洗濯機視点でヒロインを捉えたファーストショットと「勝手になおった」洗濯機で洗濯を再開する彼女からのUFOで締めるラストショットの呼応。夫婦の関係は、夫婦生活の根幹を成す要素の一つである洗濯をめぐる状況によって象徴される。本作でヒロインに影響を与える出会いはすべて洗濯機の故障によって通うこととなったコインランドリーで起こる。メガネ教師が逆上がりで始まるやつ(タイトル失念)など、最初と最後のカットを対応させてヒロインの変化を象徴させるパターンは時々使っている気がするが、その最初の例か。コインランドリーで再会したイメクラ嬢とビルの屋上で夜景見ながら飲むところも妙によかった。